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「被害者」になってしまう人

 根拠は謎だが、なぜか自分のことを生まれながらにして特別な存在だと思い込んでいる人はいる。というか生まれた直後の人間は全員そうだ。泣き喚いたら誰かが自分の世話を全部やってくれると思い込んでいるのだから。しかもこの思い込みは実現する。こういった感覚が大人になっても失われない人物というのはしばしばいる。スマホって片時も自分の身から離れずに自意識をあやしてくれるので、この世がでっかいおしゃぶりであるように感じられるのはそんなにおかしなことではないように思える。そういう人は皆、常にイライラしている。なぜかというと、それは赤ちゃんの時には難なくゲットできていた万能感、世界が自分の要望通りに即時変形する全能の力が剥奪されているから。したがって、特にイライラしていない人に遭遇すると「自分は被害者だから、目の前にいるイライラしていない人物は私から全能感を剥奪する加害者であり、自分にはケアを要求する権利がある」と考える。世界が自分の思う通りでないことに対する根本的なイラつきは、大抵の人が思春期に経験をするが、大抵の人は自分でなんとかするか、諦めるしかないという結論に着地する。実際にそうだから。ところが、親、兄弟、交際相手、友人、親族、サービス業者などがイラつきを解消するための十全の努力を長期にわたり払い続けると、自力でイライラを解決する能力が身につかないまま、突然社会の中に放り出されることになる。こうなってしまった人を見ると、気の毒のあまりに良心がグラつきそうになるが、そうなったらこちらの人生が終わりなので、冷静に対応しなければならない。「被害者」の人物は、いかに自分がかわいそうであるか全力で訴えかけて、あるいは自分がいかに可哀想な存在であるかを伝え、こちらの境遇にも最大限の共感を示しているように振る舞うことがある。しかしながら、なにか施しをしてはいけない。こちらが同情を示したところで、問題は深刻になる一方なのだから。永遠に子供扱いで生きていられる人はいないので、自分でなんとかするほかない。もしくは諦めるか。それが腑に落ちない限りは底なしの不全感に苦しめられて、人生が破滅的な領域に突き進むばかりなのだから。あるいは自分には「被害者」の側面があると感じる人もいるかもしれない。爆発しそうな渇望を限界寸前で押しとどめながら引き裂かれるように社会活動に身を投じている、といったような。もしそうであれば、やはり諦めるのが最も楽だということは伝えておきたい。すぐになにもかもを諦めるのは無理かもしれないが、毎秒誰からもなにかもを与えられない絶望、失望、憤怒に身を焦がされて自分を裏切るこの世への復讐心を燃やし続けるのは、ものすごく疲れると思うから。まあ当然というか。

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