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「草」しか生えない、片翼のプロメテウスたち


 引っ越しを機にド根性のマジインテリアをやったら部屋がめちゃくちゃおしゃれになったので絶対に通り魔に脇腹を刺して殺されたくないと思った。通り魔が突然現れた場合の対処法をよく考えているが、とにかく「虚脱」をするに限ると思っている。よっぽど人殺しに抵抗がない元軍人などは別として、道端で人間を殺そうと考えている人間は相手が逃げたり恐怖や怒りを発露させている感情をトリガーに殺意を吐露するだろうから、無気力になることでやられる可能性を少しは減らすことができそうだ。ダッシュで逃げていると拳銃などを所持していた場合は最悪発砲を誘発する原因にもなるかもしれない。それよりは、「私は無関係な通行人です」という顔をして、zoom会議中に離席する人のように部外者のムードを醸しながらその場を離れた方が安全な気がしている。私は小学生の時の子供同士の喧嘩の勃発する瞬間を克明に覚えている。どちらかが殺意を放った瞬間に喧嘩が始まるのだが、先に「殺気を放った側」が必ず「殺気を放たれた側」に襲われるのだ。したがって、子供は水際の駆け引きを行いながらお互いギリギリ殺意を放たないように感情をコントロールしながら相手の殺気を引き出すように挑発的な行動を交互に繰り返す。結果、感情を掻き立てられて殺気を放った方が、子供同士の喧嘩においては「敗者」もしくは「やられる側」とみなされる。

 ところでこの子供同士の喧嘩のパターンにどこか見覚えがないだろうか。私はしばしば見かける。インターネットのSNS上で。つまり、他人を挑発して何かを言わせようと失礼なリプライや罵倒を繰り返し、相手が何か言い返したりブロックをした場合にはそれを「敗北」とみなして大喜びしているような人々がいる。私はこのような人々を「暗いインターネット」と呼んでいるが、ひねりがなく意味のひろがりも大きすぎるので、「片翼のプロメテウス」とも呼ぶことにした。プロメテウスとはもちろんギリシャ神話のプロメーテウスで、イキリすぎた罰として岩肌に結び付けられて毎日肝臓を巨大なワシに啄まれ、夜中になると肝臓が再生し無期限の苦しみに囚われている存在のことである。人間に火という文明をもたらしてイキリまくった結果罰されて悶え苦しみつつ自力で肝臓を再生してしまうので翌日も悶え苦しむプロメーテウスの苦しみのあり方に、暗いインターネットの人々との相似性を感じたのだった。「暗いインターネット」とは。一言で言ってしまえば、はてなブログに蔓延しているはてなブロガー特有の空気感、文脈を煮詰めた瘴気全般のことだ。ジャーナリストの佐々木俊尚は、はてな民の特徴を以下のように表している。

「知的な言葉遊び」
「自意識過剰」
「ちょっかいを出したがるが、ちょっかいを出されると不安を感じてしまう小心さ」
「プライドは高いが自虐的」   (『当事者の時代』・光文社新書・2012年)


 「草」という、2ちゃんねるに端を発したネット特有の感情表現語がある。簡単に言えば「目の前で繰り広げられる馬鹿馬鹿しい事態に失笑・嘲笑している主体感情」を指す。このワードは「お気持ち」と対をなすように存在し、主体者は笑ってはいるものの、あくまでそれは「笑われるべき主体」が存在していることを前提に、笑われるべき存在が笑われるべき行動を起こしているから受動的にウケているだけ、主体感情であるにも関わらず主体責任は存在していないという体裁を取って発露される感情である。この暗い感情の主体責任を喪失される仕組みが、インターネットプロメテウスたちの肝臓を毎夜再生させてしまっている。当初、2ちゃんねる上で「草」という表現が用いられていた際、それはあくまで『2ちゃんねる』という全員ロクな人間ではないという共同意識・同族嫌悪とわずかな身内意識のような情愛から、半ば自虐も込みで発せられた害悪戦法であって、主体責任を放棄する意図も含まれてはいたものの主旨ではなかったように思われる。これが時期を経てツイッターやまとめブログのコメント欄など広く用いられるにつれ、主体責任を放棄したまま嘲笑する為の単純かつ強引なギミックとして極めて汎用的に用いられた。しかし、主体責任を放棄した主体が痛みを感じないのかと言えばそんなことはない。主体責任を放棄するとは、つまり「自らの意識や身体を客体化させてしまう」ということだからである。これはどういうことか。

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