「障がい者」という表記は使わなくてもいい 【無料記事】

「障がい者」という表記は使わなくてもいい

(タイトルは筆者の個人的考えであり、何かの特定の属性を持った集団の総意を示すものではありません)

もっと詳しく申し上げると

私は「障がい者」という表記は使っても使わなくても、当時性を持つ人にとっては(多分)あまり印象が変わらないしどちらでもいい。むしろ気を使っている感じがダイレクトに出てしまうのでわざわざひらがな表記にする必要はないのではないかと考えています。

しかし、当時者性がない人にとってはなぜ「障がい者」という表記にする必要がないのかいまひとつピンとこないところがあると思うので個人的な意見をまとめてみました。


・そもそも「障害者」とは

身近に当事者がいないとなかなかイメージが湧きづらいので

障害者=特別な配慮を必要とする普通じゃない人

というイメージを持っている人もいるのではないかと思います。
しかし、実際にはこの世には「障害者」と「健常者」の2パターンの人間がいて、その境目にははっきりとした境界線がある、というようなことはありません。

厚生労働省のHPに業務上の負債などで身体に障害が残った場合の等級の基準が紹介されています。
(こちらのwebサイトから内容を見るとこができます)

https://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/rousaihoken03/

等級表をよく見ていただくと分かると思うのですが、この等級表の基準で考えると、

ほぼ全員障害者


ということになります。

等級表には

第十四等級

三歯以上に対し歯科補てつを加えたもの
(歯科補てつ:欠損した歯に被せ物などの人工物を利用し補うこと。いわゆる虫歯治療の被せ物)

第九等

両眼の視力が〇・六以下になつたもの

とあります。

歯の虫歯治療が3本以下で、なおかつ視力が0.6以上であり、その他の条件にも一つも当てはまらない人って実際のところかなり少数派だと思います。

なのでより正確に表現すれば、多くの人が既に「労災における障害等級の基準内」である可能性が高いということです。だったらなんだよという話に感じるかもしれませんが、障害はかなり身近で一般的に「健常」と考えられている状態との境界線はさほどなく、割と誰でも当てはまる、当てはまらない人でもいつでもそうなる可能性はあるということです。

(これは労災における基準なので障害者手帳の発行基準のガイドラインというものも存在します。興味深い内容なので一読してみるのもいいかと思います)


もっと極端なことを言うと「健常」とされる状態は正直、幻想。「今現在目に見えて困ってる感じではないからオッケーです」くらいのことでしかないです。

なぜなら


・「障害」は本人が抱えているのではなく、社会が抱えている問題だから


例えば上記の障害者等級にもあった「視力」の問題。

身体障害手帳の基準に照らし合わせても

両目の視力の和が0.2以下

であれば5級に相当します。

私自身は視力が幼少期から1.5以上のままなので実際どれくらいの困難を伴うのか想像するのが難しいのですが、友達にも基準に該当するくらい視力が悪い人って全然います。普通にいます。もっと悪い人もいる。
しかし、日常生活において深刻な困難に直面しているという印象は特にないです。温泉はいる時メガネだと曇るし景色見えなくて不便とかそういう細かい不便話は色々聞くけど。


これは、視力が低い人がすごく多いので視力が低い人に向けたサービスや制度や仕組みや理解が整っているからです。


メガネをかけている人がクラスに一人か二人くらいしかいなくてあだ名はダイレクトに「メガネ」とかいう時代であれば、ろくにメガネストアーがなく、重くて精度が低く、乱視などの対応もなく、その割に値段は高く、就職や面接など差別があり…などかなりの苦労をするハメになると思うのですが、目が悪い人がかなりメジャーとなって視力補助具がビジネスとしても扱いやすくサービスが拡大したので視力が低いということが「障害」という印象はなくなりました。

障害について

「障害を抱える方」

という表現をよく見かけるのですが、実際に障害を抱えているのは「社会」という

誰にとっても平坦であることが困難なシステムの総体

であって、当事者本人は本人にとって平坦ではない地平に苦労をしているだけ。


例えば、かなり極端な発想ですが、生まれた直後に両足をとって代わりに車輪を装着するのがメジャーな社会では、すべての道路が線路のようになっていて車輪の人はかなり便利な反面、何か事情があって足の代わりに車輪が装着できないという人は障害者となります。

「徒歩の方にご配慮ください」


とかいう張り紙がいろんなところに貼ってあり、徒歩の方は徒歩の方用の専用バリアフリー通路というものが設けられ、徒歩の方の通路には、なんだかよくわからないハートマークに手が生えて何かを抱きしめているロゴが描いてあったりします。学校で「徒歩でもいい」というキャッチコピーのポスターを描いて賞がもらえたり、「徒歩枠」で就職できる、NHKの番組に出演できるなどの特典があります。


これでさらに

「障がい者の方へ」

っていうを表記見かけたら、どうでしょうか。


いや もう そこは どっちでもいいわ!!!!!!!!!!!!


となりませんでしょうか。
この辺りの感性はかなり人によるところもあると思いますが、私はかなり、どっちでもいいなーーーーと思います。そこじゃないんだよなーという、歯がゆさ。気遣いが別に当事者には向けられていない、いわゆる「健常者」という枠組みのために用いられるというマッチポンプ感。


むしろ、何かデフォルトのような身体や精神が存在していて、デフォルトではない身体や精神の人間はそれ自体が「障害」なのだが、「害」と表記するのは露骨なのでやめておこうという発想がうっすら伝わってきてしまう。なぜありもしない身体・精神のデフォルト感覚をそこまで強固に持てるのか不思議です。

ただ、デフォルトじゃない感じの人にも優しくしてあげようという発想はまあ「最悪」ではないのでご自由にどうぞという感想。

本来は、「障害を取り除く」という言葉の目的語が当然に社会(システム、制度、認識など)に向かうようになった方がいいと思うのでこの記事を書いてみました。

あなたはどう思いますか?

(答えはないよ)




(※本編で真面目な話をしてしまったので、以下はマガジン購読者の方向けの俗なランキングの発表となります)


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