「せいろ購入前」というかけがえのない特別な時間
・「せいろ購入前に必ずみてください」
ネットショッピングをしていて、画面の下の方に
と書かれたPOP-UPウインドウが出てきた瞬間をやたら鮮明に覚えている。
せいろ?
せいろ……?
せいろって、あのせいろか。
(いわゆる「せいろ」)
そのときの自分がなにを買おうとしていたかは覚えていないが、せいろではなかったことは確かだ。なぜなら私はせいろの購入を人生で一度も検討したことがないから。知らないショップの店員に「せいろ購入の可能性」について思案されたことで、急に自分のやっていふことの全てが恥ずかしくなってウケてしまった。なんでかというと「人生って大体、せいろ購入前みたいな瞬間の連なりでしかないんだよな」ということを脈絡なく実感したから。当たり前なんですけども。そういうことを考える直前までは、「自分が購入しようとしているなにかは、せいろのような俗っぽいものとは違う、なんだか聖なる属性を帯びた特別な存在なんだよ」といった
X(いまここにあるもの)=特別
の気持ちがあったというか。大袈裟かもしれないがこれが、マジで、あった。
しかしこの特別な「X=特別」の、X部分にはせいろも代入可能(せいろ=特別)であるという事実に直面して「=特別」という部分にまつわる根拠のなさが丸出しになってしまったというか。茨木のり子の詩にある「わずかに光る尊厳の放棄」が、私の場合これを指すのであったらどうしよう。そんな心配まで無意味にやってしまった。
私は自分がネットショッピングをするときは必要に応じて必要なものをクールに購入できている、ような気がしていた。変な夢見(ゆめみ=自分の行為に相場以上の夢や期待を投影すること。ここで投影される夢が実情からあまりにも大きく乖離してしまうと、犯罪的な発想へと繋がっていく可能性もある)はしていないつもりだった。なぜならば、思い入れのあるお買い物をする場合は実店舗に行くはずだから。インターネットとは昔からよろしくやらせてもらっている自負がある。ネットショップとはクールでビジネスライクなお付き合いができているつもりだった。特に、それがAmazonや楽天市場等の巨大ショッピングモールとなればクールもひとしおのはずだ。ところがどっこい、夢見をしてる。なんというか、自分ではクールなつもりでいるときの方が、かえって夢見をしやすいのかもしれない。油断してるってことだから。
たとえば、
というPOP-UPウインドウが出たのであれば、私はちょっとだけ固唾を呑んで注意書きを見るんじゃないか。そこにあるハラハラドキドキにはエンターテイメント的情緒と警戒心がどちらも含まれている。ちょっと物語的に脚色された受け取り方をしてしまっているというか、姫君が幽閉されている牢の前にいるドラゴン的な、物語を盛り上げるイベントとして捉えている部分があったんじゃないかと思う。どうせ買っているのは一人用サイズの鍋とか、お風呂で本が読めるひのきバステーブルとかなのに。
いや、別にいいんだよ。それくらい。その程度の夢見が、なにか犯罪に直結するとは考えられない(頑張っても悪質なクレーマーが席の山)。そもそもお買い物なんだから楽しんでいい。間違ってはいない。でも、恥ずかしいは恥ずかしい。
なんでこのせいろ問題(「せいろ購入前の時間」によって相対化される、今この瞬間における私の行動や言動の一回性というものは、自分にとってはそうであるだけで第三者にとってはそうではない)が自分にとって大きなものになっているのか。
・「尊い」って簡単に言えてしまう人に付随するある部分の無責任さ
私は以前、
「自分は今女子高生という尊い時間をすごしているのに楽しくなくてつらい」
というようなことを言われたことがある。そのときは、感じたことをうまく伝わるような言葉にできなかった。うまく伝えられなかった後悔が何年か経った今でも後を引いて、新鮮に悲痛なものとしてここにあるのだと思った。
当時の私は、
というようなことを伝えたかった。しかし、うまく伝える方法がわからなくて、ほとんどなにも伝えることができなかった。
伝わらなさの結果、善意からくる解釈によって、なんだか熱心に励まされたようだ、という情報だけが希少性、プレミアム感として抽出され、ある空疎な時間の間を埋める慰めとして機能するということが起こり、ここに発生しているのは二重の「尊さ」の空消費ではないか、と感じて私はいっそうむなしくなった。そんなことでわざわざむなしくなってしまうやつは、世の中の仕様上ナイーブということになってしまう。
なぜならば、こういうことは、そこそこあるから。
「目の前にあるものはなにか貴重で素晴らしく、特別な存在なんだ」という錯覚にうっすら陥っていないと、資本主義を成立させるベースとなる「交換可能な財を無尽蔵に増加させよう」という発想になるのは難しい。交換可能な財で手に入れられるものが交換可能だったらそこまで意欲を掻き立てられなくなるので、いかに交換可能ではないかという演出に力が注がれている場面がかなり多い。そのせいで「この世のすべて、実はせいろ(みたいなもの)」という側面を常に忘却しがちと言ったらいいのか。
特別さを感じにいく態度、それ自体はなにもおかしくなくて、複製した身体に記憶を移し替えてもそれは自分ではないように、目の前にあるひのきバステーブルは効率的な製造ラインで生産されて至る所にありふれているにしても、今この瞬間私が購入しようとした目の前にあるたった一つのひのきバステーブルでしかないことは確かで、そうである事実に特別な感情を抱くのはごく自然な話だと思う。
なんだけど、「だから尊い」というところまで発想を飛躍させてしまうと途端に都合よく目の前に現れたものを客体化、矮小化して接する精神的態度の支柱が醸造される。
・ヴェルオリの手口
身近なところで考えると、ヴェルターズオリジナルのCMも似たようなことを言っている(なにしろCMだから、一回性のものとして現れている目の前の物質が交換不可能な価値を含んでいるというメッセージを発するのがその主張の本文なのだ)
この主張に付随する問題とは、自分は今ここにしかいないという一回性を商品の「プレミアム感」の証明に用いているせいで、中身はなんでもいいという発想になりがちというか
「世界のあらゆる事物が私という一回性の生命に遭遇することでプレミアムな性質を獲得する客体として現れる可能性のあるもの」
として見えてくるというか。
「尊い」とは一見謙虚な姿勢で発せられている言葉のように見えるんだけど、実は上記の態度になった獣が上げている唸り声なんじゃないか、という気がする。
だから「獣の前に現れうる客体」として自らの価値を逆算しようとすると、その内実のむなしさに苦しむハメになるんじゃないか、ということも思う。
・ここでせいろ
ここで「せいろ」である。
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