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恋愛のブームはもう終わっている

 SNSでは何度か発信しているのですが、筆者はこれから先「恋愛」という文化・風習・消費形態がなくなることはないものの、多くの人が広く親しむメジャーな趣味ではなくなっていく(もうすでになりつつある)のではないかと考えています。具体的には茶道くらいの規模の一部のこだわりのある人が楽しむマイナーというほどではないが、かといってメジャーでもない、知り合いを当たればやっている人はしばしばいる、というくらいの温度感になるのではないでしょうか。

 このように考える理由はいくつかあるのですが、その中でも最も大きなものは、そもそも恋愛を成立させる前提としての「異性に対する幻想と誤認」が通用しにくくなったからです。当然同性愛や無性愛の方もいますから、ここで「異性に対する」と括ってしまうのはひどく乱暴な物言いだと重々承知しております。そもそもここで取り上げる「恋愛」自体が現代的な感覚にフィットする人間関係上の定義ではなく、70年代以降の個人消費主義の発展からインターネットが普及して消費者の趣味嗜好が細分化していく0年代くらいまでの間に限定的に盛り上がった消費ムーブメント、あるいは需要・供給の喚起システムとしての恋愛を指していることを申し上げておきます。

 具体的にはゲレンデの恋、高級なクリスマスディナー、モテるために高い車をローンで買う、みたいな価値観における狭い意味範囲の個人消費主義が前提となった「恋愛」を指しています。このような恋愛観は現代ではかなりフィクションじみているというか、トレンディードラマのように作り込まれた嘘くさいものにしか感じられないと思うのですが、一方でこの嘘くさい「恋愛」の感じにうまく置き換わって現代にフィットするような人間関係上の定義が数十年発明されてこなかったのもまた事実です。だから、いまだに「恋愛」という定義を用いる時に個人消費主義的な意味合いでの「恋愛像」が引っ張られて出てきてしまう。こういった現実が2020年代の日本に横たわっているのも確かなことですし、またそのせいで様々な齟齬が(些細だが、決定的な齟齬が)生じてきているように思われてならないのです。

・個人消費主義的恋愛とは

 3Cって学校の授業とかでギリ聞いたことがありますでしょうか。「カラーテレビ」 「クーラー」 「自家用車(カー)」。この三つが高度経済成長期に叫ばれた、いわゆる新三種の神器です。ものすごくざっくりした説明になりますが、70年代に入るまでは今まで持っていなかった便利アイテムをゲットして生活がワンランクアップすることが個人の(そして社会全体の)生きがい、みたいな話になっていました。しかし70年代以降はかなり豊かになって多くの人が生活必需品をゲットし終わったので、それに変わって自分の選択眼でいい商品をセレクトして他人と差をつけるのが生きがい、労働の意味、みたいな話に変わってきました。こういった「労働してちょっと上等なものをゲットしてセレクトや生活自体を楽しみに生きる」みたいな姿勢が個人消費主義(政治的思想がない代わりにセレクトと消費の面で自我を発揮する)と言われるものです。現代の感覚からすると当たり前すぎて逆に理解しづらいかも知れませんが、この「消費で自我を発揮」+「セレクトのセンスで人と差を付けていきたい(=豊かさの度合いによる差異があまりない)」という動機が、商業主義的な恋愛のコピー、つまり

・他人と差をつけてモテよう
・モテて成功やワンランク上のセンスをアピールしよう
・恋愛は無料ではできません。大金を払う施設に行きましょう

といったメッセージ性と抜群に噛み合って大ブームを巻き起こしトレンディードラマのような潮流を生んだ、そういうところがあります。それより以前はお見合いで結婚をしていた人が多数派だったので恋愛してアツアツゴールインみたいな感覚はそうメジャーではありませんでした。当時はブームだったのである程度は猫も杓子も、みたいなところがあると思いますが、現代ではそういうノリが流行っていないのでさほど活気がある感じではありません。したがって、メディアの側もあまりに押し付けがましく主張すると白けるかな、とは薄々感じつつも

『やっぱり「モテ」とかの話をすれば無尽蔵に需要(消費者が消費する動機)を喚起できるので便利すぎて手放せません。どうかトレンディー的なる恋愛は一過性のものではなく人類のベーシックな感覚という事になっていてください』

広告業界の心の叫び(筆者の妄想)

という強い願い(心の叫び)のみで消費主義的恋愛がメジャーみたいな雰囲気が延長しつづけているだけの話です。もちろん広い意味での恋愛というか、様々な情動と爛漫のホルモンバランスが特定の相手に向けてほとばしりうねりをあげて燃え盛る人間活動の現出みたいな事態は世相がどう変化しようと必ずあり続けるとは思うのですが、「恋愛=お金の使い場!!センスの発揮しどころ!!社会に成功や成熟を見せつける大チャンス!!どんどんやろう!!let’s ☆ ラブラブ」みたいなスローガンを心底真に受けて付いていける人はそういないのではないか。言い聞かせて回ったところで「増税」と一言で吹っ飛んでしまうほどの薄い説得力しかありません。そもそも現代の人権感覚からすると、はしばしに無理が生じていますし、耐用年数を過ぎている感じがあります。つぎはぎして修理してなんとか長年使い倒してはきたものの、流石にもう限界って感じではないでしょうか。

・「異性に対する幻想と誤認」とは


 筆者は先日、カフェですごいものを見ました。これは想像上の話ではなく本当に筆者自身が出くわした場面です。若干洒落っ気のあるカフェの店内で仕事をしていたら、マッチングアプリで出会ったであろう男女が私の隣に着席しました。他に客がいなかったので全ての会話が聴こえてきたのですが、明らかに「色」をまとっている気配を感じ取りました。ここで言う「色」とは、つまり性的なうねりを伴った幻想のことです。こういった幻想は恋愛に限らず起こり得るものですが、相手に対して普通ではあり得ないような夢や可能性を投影し、投影した相手が目の前で会話をしてくれているあり得ない状況から幻想のフレーバーの一端を直接吸引しブチ上がる、というのがいわゆる個人消費主義的恋愛の只中において多くの人がやっていることです。外国のお菓子を売っている店で、たまにチョコレートの中におまけのおもちゃが入った商品を見かけることがあるのですが、あれにちょっと似ています。

(※参考)

内容は変わらないんですけど、最初からおもちゃだけが売っていても特別欲しくはならないのに、チョコエッグの中に封入されているせいでなんだかとてつもなく魅力がある素晴らしい夢のおもちゃに感じられる現象です。これをチョコエッグ現象と名付けるのであれば、マッチングアプリで出会った男女は、まさにチョコエッグの外側から中のおもちゃを夢見て焦がれている状態。最高に楽しくて仕方がなかろうが。その猛烈な楽しさ、ワクワク感、入れ混じるドーパンミンの興奮とオーロラ色の吐息、気配みたいなものが、なんといったらいいんですか、もう距離が近いから、グングンに伝わってきて。ガンガンに、ギャンギャンにといった感じでして。こちとらはもう、どうにもならない。全く仕事に手がつかないのです。しょうがないから全神経をマッチングカップルに集中させる事にしました。全くもって、自身の小市民具合を恥じ入るばかりの人生でございます。


 当初は穏やかな、しかし以上に雰囲気のいい会話が繰り広げられていました。お分かりになりますでしょうか。初対面のデートのみに許されたこの「異常に雰囲気の良すぎる会話」というものがある。1が100になって返ってくる。それがまた100で跳ね返る。ねずみ算なんて目じゃないインフレ具合。私は激しくインフレするものに目がなくこの「異常に雰囲気の良すぎる会話」がたまらなく好きな為、聞こえてくると全神経を集中させてしまいます。唐突なインフレによって、


他人 → 人生で一番の親友


みたいなところまであまりに唐突にステップアップした、クライマックスのところで繰り出された会話が、もうね、極めて印象的だったのです。男性が突然

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