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個性ではないもの一覧表

 シリーズ個性の大学をお読みいただいた方は、一体何が個性で、何が個性ではないのか、概ねのところはお分りいただけたと思います。より分りやすくするために「個性」だと世間一般に誤解されているものの実は全然個性ではないものをまとめました。かなり分りやすくなっていると思いますので、個性に困惑・疑問の残る方は是非一読ください。


・病気は個性ではない

 改めてこんなことをお話しするのも大変辛いものがありますが、やはり病気は個性ではありません。病気は病気です。むしろ、病気になっている人は、はたから見ると行動パターンや思考パターンが大体似通った感じになってきますので当たり前ですが病気だな(没個性的である)、という印象になります。一時期アウトサイダーアートという視点が流行しましたが、病んでいるからいい作品が作れるのではなく、いい作品を作れる人物がたまたま病んでいた(もしくは権威的な指標に沿う経歴がなかった)せいで、社会的な評価がされにくかったものをキュレーターが発掘したというのがアウトサイダーアートです。つまり、社会的な困難さがなければ、単に良さ、実力のみですんなり評価を受けられていた筈で、困難さは残念ながらやはり困難さでしかありません。抱えている困難な問題や状況が、時に人の心を強く揺さぶる説得力をもった表現として結実することがあるのは確かな事実ですが、それは本人が困難な状況からよりよい人間としての生を追求する生命体としてのエネルギーが人の胸を打つのであって、困難さに甘んじて同情をされたがっているようなさもしい人間の表現がそんなに強く胸を打つことは通常ありません。前を向くのも難しいほどの悲痛な困難や絶望に同情してもらいたい気持ちはとてもよくわかるのですが、やはりそれでも前向きに、なんとか状況をよくしようと精一杯葛藤している人間の方が同情ですらされやすいものです。むしろ同情なんかされてたまるかと思って生きてやった方が、それこそ人生がマシだと私はこのように思います。


・老化は個性ではない

 老化は個性ではありません。そもそも、今の50代以上の方にはあまり「個性」という概念がないので「個性的」になろうとしている人も滅多にいないのですが、「年齢を重ねた分、何者かにならなければならない」という強迫観念が暴走してしまっていることがあります。それは「個性」を得て好きなことで生きていかなければ生きている意味がない、と思い込む20〜30代の強迫観念に構造としては似ています。何者か、なんだかわからないけど、何かを成し遂げている大人物にならなければならないという老年期の強迫観念。恐ろしい点は、それが「個性」という言葉もなしに、ただ無形の強迫観念として現れてくるところです。心当たりがないでしょうか、突然自伝・句集・歌集を自費出版するという方に。脱サラしてラーメン屋・蕎麦屋・「喰いもん屋」を開業するという方に。それが本当にやりたくてやっているならば何も問題はないのですが、「何かを成し遂げたひとかどの人物にならなければならない」という思い込みから発生した行動である場合、ほとんど「個性」にまつわる問題に近いことが起きていると言えます。しかも年配者の間には「個性」という概念が一般化していないので、皆一様に似たような「ひとかどの人物感」をやりたがる、という問題が起きているのです。似たような人物とは。主に2パターンあります。それはビートたけし、もしくは所ジョージです。これを私は「T or T問題」と呼称しています。歌人で例えるならば、種田山頭火 or 尾崎放哉、つまり、情熱のままに生きるカリスマアーティスト気質という狙いの人物が「夢を抱け」みたいな名前のアーティスティックなラーメン屋を開業するか、もしくは生々流転を旨として漂泊の日々を生きる退廃的な流浪者という狙いの人物が怪しいヘイト本を出している出版社に唆されて自費出版の句集を出すか、という方向性の違いです。これは、SNSでがむしゃらに何者かにならなければいけないと思い込んで、何かを演じている年配の方のアカウントをつぶさに観察した結果得られた調査結果です。これらは孫にうんざりしてあまり好かれなくなる、SNSが香ばしい感じになり知らないところで親族に引かれるなど軽微な問題を発生させはするものの、老後の余暇の自己実現としては許容の範囲内であり若者の無理な個性探しの苦しみよりと比較すれば即時的に改善した方がいい問題とは考えません。しかしせっかくの人生の余暇をそれっぽい振る舞いに費やし、なんだか達成されたのか達成られなかったのかも分からない微妙な命の読後感を得るくらいだったら、素直に自分を大きく見せようとせずにやりたいようにやった方がマシな可能性が高いとは思います。これは日本の政治家が、「死期を悟ったタイミングで自分の出身地に特に使い道のない豪華な箱物を何億もかけて作ってしまう症候群」に似た現象です。学芸員の方が、日本の地方には建物だけが立派で展示品を買う予算が下りていないので空っぽの箱物美術館がたくさんあるということで嘆いていらっしゃいました。死期を悟って「やってる感」を演出したくなるのは理解できますが、とにかくガムシャラに「やってる感」を出しまくったところで、石原慎太郎の東京オリンピック誘致のような微妙に誰も喜ばない(うっすらはた迷惑だが誰も指摘できない)結果を招くことになります。変になにか像を作ったり形だけ立派な箱物を作るよりも、既にある児童館に新しく絵本を入れてあげて喜んでいる子供や親を見た方が充実感があるでしょう。むしろ空っぽの箱物が残ってしまうと、老年期のなにかに必死な感じが実は全国民にバレるので本当は恥ずかしいことなのです。老いをこじらせた老人にも定年がこない職業、それが政治家です。若者は実は年配者のそういう感じに絶妙に気づいています。ただ、年齢差があるから言えないし言わないだけなのです。


・若さは個性ではない

 歳を重ねることが「個性」ではないように、若さもまた個性ではありません。たまに「歳をとることが怖い、若さを失いたくない」ということで葛藤している方がいらっしゃいます。なぜ怖いのか、それは若さが失われると、それにともなって「個性」もまた失われるような強迫観念に陥っているからです。確かに若さには価値がありますが、それは個性とは何ら無関係なので焦る必要はありません。若さを失っても、個性が失われることはありません。また、若いからといって個性が得られるということもありません。全くの別問題なのです。これらの緩やかな、しかし不可分に固く紐づいた二項目の混乱と混同は、「個性」の問題が常に若さと結びつけて取り扱われてきた根深い問題が横たわっているように思われます。

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