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間に受ける性格

子供のころ、私は七夕の短冊に「できれば透明人間になりたい」と書いた。七夕というと聞こえはいいが、一億総お願い乞食である。そんなものを誰かが見ているとも思えなかったが、万が一叶ってしまう可能性もある。だから念のためマジの願望を書いた。当時の私は言われたことをなんでも間に受けて笑い物にされたので、透明人間になりたいと常々思っていた。側から見たらかなり牧歌的な悩みでしかないが、つくづくそう思っていた。雨の翌日は水たまりに浮く重油の動きに感情移入した。重油はトラックからこぼれるのだろうか。それはくさい割に虹色で、基本よくないのにポイントでいいところが、なんというか親しみを持てた。こちらの精神をどこかに接続しようという意図(広義のデザインと言ったらいいか)がないから、その分なごめるというか。
透明人間になりたい。透明人間になった後はキッチンの食べ物を拝借しつつ本を読んで過ごせたらいいかなと思った。それは輪郭のない想像だけど、けっこうな実在感があった。湿度がある。奥行きがある。奥行きの先には腐敗したものが詰まっている。図像を見るというより、粘土を掴むような想像力だった。そこにある粘土は楽観的で、端はもうハワイのようですらあった。寂しいとか、そういう感情が発生する懸念についても問題ないと思われた。なぜなら、「寂しい」という感じは他人に発見される可能性があって初めて成立するからで、例えば人ごみの中にいるとき、ギリギリ顔バレするかしないかの場所で最も心がざわつく。そうなるのは自分では自分のショボさが痛切にわかるのに、それでも誰かに発見されてしまう可能性を否定しきれないからじゃないだろうか。否定しきれないどころか、発見をおのずから願っているまである。発見の可能性を念頭に置いて味わうという意味で、寂しいと恥ずかしいは似ている。
笹を飾った場には、地域住民が集まってなにもバレていない感じを出していた。なにもバレていない感じを出さないと社会的に死ぬから出している。そういうスタンスさえなかったら、人間はただそこにあるだけの話だから、そこまで心がざわつくようなことも起こらないのではないか。
したがって、後は透明人間になるという願いが叶うのを待つだった。実際に叶うかどうかが最大の懸念点だが。

懸念した通り、全く透明人間にはならなかった。大人になってから「子供のころ七夕の短冊に書いた願いはなんですか?」という質問をされたので、私は「できれば」の部分は省略して

「透明人間になりたいと書きました」

と答えた。「できれば」込みで言うと「コイツ、七夕を間に受けていたのかよ」と思われてしまうかもしれないのでそうした。「へー」と言われた。ぜんぜん伝わっていない。仕方がない。説明のしようがない。意図も過程も前提も実態も深刻さの度合いも、何ひとつ伝わっていない。こんなに伝わらない会話があるか。なにも言わない方がマシなくらいだ。行事をどの程度間に受けるのが正解なのか。そういうガイダンスが人生にはない。

「願いを叶える行事なんだから、叶いかねないだろ!」

と言いたかった。「叶いかねない(可能性は低いが、確実に叶わないと断定もできない)」のでないなら、少なくともそういう方向を誰も間に受けていないのであれば最初からやらない方がいいと思う。
当時短冊を吊った笹には他に「ゴジラと戦いたい」「無人島に住みたい」「セーラーマーズが家に住む」など、叶いかねない事態を想定していないと思われる願いが多数あった。おいおい、叶いかねないのに大丈夫か、こちらは叶っても差し支えないが。そちらは本当に差し支えないと言えるのか。どういう精神のバランス感覚なんだよ。

行事に対するスタンスが、根本的にわかってない。

結局、どうすればよかったのか。私は自分なりに七夕のガイドラインを考えた。要するに、もっとアヤフヤな願い事をするのが七夕の場合は適しているのだと思う。叶ったとも叶っていないとも言い切れないような。具体的には

「商売繁盛しますように」
「家内安全に過ごせますように」
「お客様に沢山美味しい料理を味わっていただけますように」
「楽しく過ごせますように」
「お肉がいっぱい食べられますように」
「今年も推し活が充実しますように」

など、明確な基準がなく、その人の主観次第でどうとでも結果が解釈できる願い事を書くのがよいのだと思う。さらに付け加えるならば、それは叶えてもらうのを待つタイプの願いではなく、願ってる側のがんばり次第でどうにでも叶い用がある願いを書くのが好ましい。「頑張りますから、見守っていてください。たまにラッキーを与えてくださるとラッキーです」くらいのスタンスが最適だと思う。この「基本こちらが頑張りますのでひとつよろしく」スタンスは初詣をする際など、祈祷シーン全般で活用できる。

ただ、こういう願いはどうしても抽象性が高く曖昧な内容になりがちだから、七夕特有の問題として「全員同じような定型文を書くしかなく、それが目に見える形で並ぶとすごくつまらない。なんならちょっと浅ましい感じすら出る」という致命的な難点が発生する。この問題を解決するために、七夕のスタンスをいまひとつ理解できていない幼児期の人間に短冊を書かせることで「叶うわけないだろ」的願いを混ぜて可愛げをトッピングして全体のバランスを保っているのだと思う。そういうことを意識的にやっているのか無意識的にやっているのかはわからないが、世間に備わったバランス調整能力が駆動している。世間というのは、平然としているようで、ある側面からは極度に脆く見え、しかしこのように底知れない地力も有している。
要するに、幼児が真剣にマジレスをすればするほど真剣味が無に還るしかない絶望座敷牢システムの渦中に取り込まれていたわけで、考えたことが逆方面に功を奏するばかりだったのだと思う。こうして身も蓋もない事実が鮮やかに浮かび上がった。

その後あらゆるガイダンスが一向に開催されないまま私は中学生になった。

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