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シリーズ:個性の大学Ⅴ 「平凡さはどんどん出したほうがいい」


 平凡さというものに強いコンプレックスを抱えている人が多くいるような気がします。どうすれば普通から脱却できて、特別な存在になれるのだろうか、という考えが当たり前で、平凡さは無価値なものだと考えられがちです。しかし、本当に平凡さとは無価値なのでしょうか。私個人の考えとしては、平凡さを脱却したいと悩んでいる人に足りていないものは、実は自分の平凡さに対する観察眼ではないのかと思うことがあるのです。

「特別になりたいのに、どうして平凡さに目を向けないといけないんだ。自分の中の平凡さなんて、むしろ隠蔽したいくらいなのに」

と思われるかもしれません。確かに一般的に考えられている「平凡」のイメージはそうかもしれません。具体的にはこのような感じでしょうか。

客観性がなく、自分がどこか特別であって欲しいと願っているにも関わらず、いかにもありふれた凡庸さに覆い尽くされた、取りつく島もないような寒々しい人。

具体的には、と言いましたが、実のところこれは全然具体的な描写ではありません。とりあえず「よくありそうなつまらない感じ!」という意味の言葉を膨らませているだけです。しかしこのような曖昧な、細部への観察がない、アヤフヤな凡庸さのイメージ全般が世間一般で「平凡」のことだと考えられています。

 実は、何かを表現するときに、平凡さほど頼りになる感性はありません。いかに独特な感受性を持っていたとしても、それを多くの人に伝わる形に置き換える「平凡さフィルター」を持っていなければ、全ては宝の持ち腐れになってしまうからです。実際、なにかしらの特別な感性を持っている人よりも平凡さを、それも細部への観察を伴った平凡さや客観性の視点を持っている人の方がずっと貴重なのです。

 全身にハイブランドを身につけている人は目立ちますが、必ずしもオシャレとは言えません。インパクトが強いアイテムほど、それをうまく着こなしていくには逸脱した存在感を日常の中に成り立たせるための文脈、つまり平凡さへの観察力が必要になります。平凡さを隠そうとして、隠すためにインパクトの強い個性的なアイテムを身につけていると、服と人間の存在感がチグハグになって、お互いに邪魔をしまっているだけで全然まとまりがない状態になってしまうのです。「なんでそこにいるの?」という疑問が、服にも人間にもお互いに発生してしまっている状態です。これが、平凡さを押し隠そうとしている表現によく見られる不自然さや、見る側がすんなりと受け取れない強張りの正体と言えます。逸脱をしようとすればするほど、より一層平凡さへの観察は重要なのです。

 だから、平凡さというのは隠すどころかむしろどんどん出していった方がいいのです。こんなことは誰も教えてくれませんが、平凡さを丸出しにしてもそれでつまらなくなったりはしないので絶対に恐れてはいけません。

 手品師のマギー審司さんが、ただ耳を大きくするだけの手品をよくやっていらっしゃいますが、これが何度でも見れるくらい成立しているのは本人がご自分の平凡さをすごくよく観察して理解した上で強みにしているからです。マギーさんに限らず、人気者は自分の平凡さをよく理解して活用していることが多いのです。

私自身も、人気者というわけではありませんが、考えや発想が逸脱している分、自分の中にある平凡さを注意深く観察するようにしています。具体的に私の平凡さを列挙すると、次のような感じです。

・いつも考え過ぎてしまって、ノリで判断ができない。
・あまり食べられないので、その場では多く食べないが、家に帰るともう少し食べておけばよかったかなあと思ったりする。
・ついつい顔に出る。隠し事ができない。
・そんなに要領が良くないので、休みの日でも家を出るときは本当に今日は出かけてもいいんだろうかと悩みあぐねて、気がついたら夕方になっている。
・お化け屋敷を見ると、ついつい入ってしまう。
・美容院の出口にある飴は、絶対いらないのに毎回お会計の時に「もらっておこうかなあ」という迷いが脳裏をよぎる。絶対にいらないのに。
・駅でペットボトルに入った水を買うと、買った事実に安心して家に帰るまで一口も飲まなかったりする。せっかく買ったのに。
・犬が好きなのに、こちらを好きそうな犬に遭遇してもお互いに遠慮してしまう。

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