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水野いや伝 どこまでいっても、なんかやだ(1.5)

 中学受験の話を聞いて唐突に、どうして自分が雷を怖いと感じなくなったのか思い出した。自分は雷を生まれつき怖がっていなかった気がしていたけど、小6までは怖いと感じていたのだった。忘れていた。どうして忘れていたのかというと、ある意味でそこで自分が一度死んでまた生まれ変わっているからだと思う。そういう取り返しがつかないほど決定的にのっぴきならないものを直視する瞬間って、人生においてしばしばある。

 小6の時の私は学校へはほぼ行かずに中学受験の塾に通っていた。中学受験の緊張感って、大学受験の緊張感をある部分では超えている。それは、突出した能力の芽を丹念に潰して摘み取ろうとする日本の小学校の義務教育への鬱積した不満や忿怒をひとえに偏差値にぶつけているからに他ならない。受験戦争って言うけど、小学生の受験は政府の教育方針に対するレジスタンス行為という意味では実際に最小単位のパルチザン行為をやっているような向きがある。子供のくせに賢いと、もしくは賢さを隠して平凡そうに振る舞うだけの社会的な賢さを備えていないと、小学校の教師からは虐待されがちになる。小学校では全てにおいて標準的であることが優秀さの指標だからそうなる。小学校へ行けば「一人で先に進むな、足並みを乱すな」と釘を刺されるし、塾に行けば「己の怠惰に浴する暇はない、従順な納税マシーン量産教育に徹底的に反抗しろ。お館様の奴隷になりたいのか、自分の力で生きるのか。目の前のテキストを開いて選んでみなさい」とこれ以上ないほど念入りに釘を刺される。できないならどんぐりでも拾っておいで。できるのであれば共に死線を越えよう。プライドか、それとも命がけの戦いか。そのどちらかを選ぶしかない。子供だから、これが極端な二択であるとは思わない。いや、大人になったって思わないよ。だって実際に「そう」なんだから。思い知るのが早いか、遅いか。それだけの違いしかない。

 板挟みの不協和音は、紅白歌合戦の「真面目に」やってさえいれば、いつまでもこのままでそれなりに一億総中流でE~感じにやっていけるだろうという甘い目論見を仮想的に実演する箱庭ショーへの不信感を持って爆発した

日本の未来は
(Wow Wow Wow Wow)
世界が羨む 
(Yeah Yeah Yeah Yeah)

LOVEマシーン

1999年末、時代は就職氷河期の真っ只中であった。日銀はこの年初めてゼロ金利政策を導入した。いわゆる「失われた30年」の最初の10年目くらいの段階で、それでも大体このような雰囲気だった。学校のクラスは今よりずっと水槽みたいだったし、全員の中に、それぞれオリジナルに「誰かがなんとかしてくれるかなあ〜?」という雰囲気があった。誰かっていうのはなんらかの手心というか配慮というか、そのあたりの得体の知れないフワッとした何かのことである。

「ウォウ」とか「イェイ」とか、そうなるのも分からないではない。肝心なことは何も教えて貰えないし、自分で知ろうとすると悪い人間、輪を乱す全体のことを考えていない利己的な人間ということにされるし。じゃあ趣旨がわからなくても取りあえずウォウウォウ言ってるのが無難かな。後に判明したが、ウォウウォウの趣旨は誰も理解してはいなかったのであった。何がウォウウォウかは分からないが、なんだかみんなが言っているからそうなんだろう。という。有料チャンネルの『WOWWOW』をモーニング娘。の歌詞に倣って「ウォウウォウ」と読んだらクラスメイトに爆笑された。生活が、めざましテレビの箱庭みたいになっているけど、大丈夫なのかよ。

 しかも女で賢さバレを防ぐ技術の習得に必死でないと特に熱心に虐待される。当時は塾でも女用の虐めがあったが、ここには偏差値がある。自分より偏差値が高い人間を虐めるのは惨めだから偏差値はある程度身を助ける。心の面は助けてくれないが。でもそれは全員そうだから。偏差値を心の支えにしてしまうと早い段階で人生が全面的にボッシュートされる。自分的にアリな規模の偉業をやり終わった政治家(しかも急に自伝を書いたりどんぐり粉が自慢の蕎麦屋を開業したり自由律俳句に目覚めたりするかもしれない)みたいに、偏差値で心を支えていないとロクな会話も出来ない終わりつつある人間になる。まだ生きている年数が2桁になったばかりなのに、もう心ボッシュートかよ。早すぎる。私が偏差値というか、エリート意識、見下しの感情を心の支えにしなくて済んだのは、単に偏差値が全国トップから3番目くらいの学校が全部男子校だったからで、実際の学力ではもちろんそんなところには行けないんだけど、外的要因でどれだけ頑張っても頂点には行けないのだと思い知らされたからだった。だから塾の先生が子供にエリート意識を植え付けようと真実めいたトークをする時も言葉の端々に「それ以外」を探す目ざとさを手放さなかった。こいつら、誰1人として信用できねえよ。

 私は小学校には行かなかったのは、全員が損をすることで誰も得をしないという平等を実現する施設の効率の悪さに耐えられなかったからだ。実際、やっている事は人格破壊とほぼ同じように見えた。無知、善良、従順、待機、受身、脳死の訓練場に6年間みっちり通ったら、基本的には誰かが何かしてくれるのを黙って待っている善良そうな人になる。自分のような、ものすごく努力をしないと人間らしく振る舞えない人物がそれをやったら即、死ぬ。考慮されていないのだから、誰になんと言われても自力でやっていくしかないよ。死の施設。学校が死の施設ではない人はラッキーなのか。そうでもないのか。

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