あまりにも露骨なソーランを今日も

私は読んで字のごとく、「露骨すぎるソーラン」のことを『露骨ソーラン』と呼んでいます。



分かりますか、分からないと思います。分かるわけがない。



人間の脳と脳とが邂逅する為には余りにも前提が多い。前提を無視するコミュニケーションのテクと就活に役立つ他人の脳とうまく出会わずにすれ違うコツなんてひとつもいらないから、私は何もかもを説明したい。できれば憤死のように、説明が死因になるくらいに説明をしたい。



【露骨ソーランとは】


読んで字のごとく「露骨ソーラン」と読んでもこの場合何の説明にもなっていない点が大いに問題ですが、要するに説明するのが戸惑われるほど明らかなソーランのことです。つまり、そもそも「ソーラン」とは何か、という話になります。


肉体精神両面で過酷な遠洋漁業の最中に自らを鼓舞するために歌われたのが「ソーラン節」で、ここでは荒波の渦中で猛る海原でニシン漁をする人々が互いを鼓舞する過程(ニシンをタモ網で汲み出すシーン)が描かれています。また、ソーラン節といえばテレビドラマ「3年B組金八先生」で取り上げられたことに端を発し、小学生の運動会の定番行事となっています。私も小学生の時にソーラン節を踊ったのですが、ここに描かれている励ましの過程が何ともダイナミックで感銘を受けました。

ヤーレン ソーランソーランソーラン
ソーランソーラン(ハイハイ)
沖のカモメに 潮時問えば
わたしゃ立つ鳥 波に聞け
チョイヤサ エエンヤーサノ ドッコイショ
(ハー ドッコイショドッコイショ)

(北海道民用ソーラン節より)


「ソーラン」


ここで初めてソーランに触れた迸る閃光。ヘレンケラーのウォーター。ソーラン=これが、これがソーラン。原体験としてのこれ以上の説明を拒む燃え盛るような激しいソーランとの邂逅。著しいソーラン。


凄まじいソーラン。ゴリゴリのソーラン。グングンのソーラン、ギンギンの、ギャンギャンのギコギコのギャリギャリのベッキベキのジャッカンジャカンのバッチンバチンのガッチャンガチャンのビッコンビコンの鼓舞の原液のようなソーラン。ドモホルンリンクルのように、鼓舞の精神から絞り出された果汁の一滴一滴をじっと見つめたようなソーラン。原液から液すら廃したような塊のソーラン。アニミズムの概念が垂直に実態化し踊りだすソーラン。夜空に輝く星座のソーラン、夕日に浮かぶ切なげなソーラン、古墳に眠る魔術的ソーラン、ちょっとした土産のソーラン。コンビニで手軽に買えるソーラン、一品あると嬉しい気の利いたソーラン、週刊少年ソーラン、ソーランonline、ソーラン始めました、大乱闘ソーランブラザーズ…このようにして、幼少のわたくしは、たちまちこの「ソーラン」に夢中になり事あるごとに世に「ソーラン」がありはしないかと目を皿のようにして考えるようになった次第でございます。

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