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シリーズ個性の大学 Ⅳ「面白さ」の判断 〜心の隠蔽技術を分析した上でアプローチする、主体性回復マニュアル〜

「面白さ」の判断

「個性」について考えていく上で、面白い質問を頂きました。

「面白い文章かどうかって、どうやって判断していますか?」


 残念ながら、面白い文章かどうか、自分では判断が難しいように感じた文章は、他人から見た場合にあまり面白くない文章である可能性が高いと考えられます。なぜならば、自分の内心に浮かび上がった考えやイメージを文章にするために没頭し、集中と充実を経た後であれば、「これは面白いかな?」という気持ちはあまり生じないからです。没頭の後に気になることは「自分の伝えたいことがちゃんと伝わる文章になっているかどうか」です。面白いかどうかを判断するのは究極的には他人であって、筆者自身が判断できるものではありません。「伝わるかどうか」の葛藤以前の文章は「解釈の実力のある読み手が面白い読み方をしてくれれば面白い可能性がある文章」です。少数の実力者にしか見いだすことができないハードルが高い魅力を備えた文章も素敵ですが、偶然頼りになってしまいますし、より多くの人に興味を持ってもらうのは困難であることが多いでしょう。

 何事も内容ですが、文章を書いて評価してもらおうと考えた場合、映像などの表現と比べてしまえば伝え方自体に工夫の余地が少ない文章表現ではより一層シビアに内容が求められます。「内容」とは。もう少し噛み砕いて考えると「筆者本人の心中でどれだけ大きな事件が起こっているか」私はこれに尽きると考えています。さして事件が起こらない小説であっても、人物の心中にすごく大きな事件が起きていれば興味深く読みことができますし、ビルが大爆発をすると言われても、感情のエネルギー(臨場感)が発生していなければ、ただの迷惑な爆発です。

ルポルタージュやノンフィクションの文章であっても、書いている人が出来事に対して不感症的な態度を取っている場合、とても読めたものにはなりません。できる限り中立的な視点を心がけている筆致の文章であったとしても、筆者には必ず主観があり、心があり、中立的な態度で物事に対するのは不可能であり不誠実であって、その中で最大限の中立的な視座に落とし込む為の葛藤や苦悩があるから内容が価値や重みを内包し面白くなるのです。したがって、つまらない文章を以下のように言い表すことができます。

「私は冷静で中立的な視点で物事を俯瞰している」という自己認識によって書かれた、文章の中で起きている出来事に筆者本人の心がコミットしていない、素通りしている文章。

これでは面白くなりようがないし、どんなに伝え方を工夫したところで誰も読み方がわかりません。美術大学に通っていた頃には、課題の発表時に次のような失敗例をよく見ました。

作者が作品と自分の心を切り離して、伝え方・見せ方の工夫のみに時間やエネルギーを費やす。結果自分の心と表現上の工夫がチグハグになり、上滑りをして、技術的には上手くて小慣れているのに退屈で小っ恥ずかしい表現になってしまう。

これは全く他人事ではありません。なぜなら、「物事を自分ごととして捉える訓練」をほとんどの人が全くやっていないからです。美大受験は特に、極端に物事を他人事として捉える訓練のオンパレードです。他人事の訓練で評価をされて大学に合格したのに、その後一旦自分の心をその場から排除する癖に気がついて表現の仕方を再構築するのは至難の技です。美術大学では周りの人も過度な他人事感に適応した上で入学しているので、自覚を得るチャンスがほとんどありません。私自身はどう隠してもごまかしても、絶対に無知で馬鹿げていて浅はかで低レベルな自分が表にでてきてしまう、自我やクセが強すぎるタイプだったので、仕方なく出てきてしまうものをよくするしかないという意識で取り組みましたが、自我を上手に隠蔽できるようになった人が再び心を持ち出すのは困難です。美大受験を経ていなくても、一般的に高校生までは自我を隠蔽すればするほど評価されるので隠蔽のクセが身体の隅々まで染み渡っている人も少なくありません。こう言ってしまうとオシャレで嬉しいかもしれませんが、言わば全員がHUNTER×HUNTERのキルアのような感じになっているのです。どうやって心の隠蔽グセを克服すればいいのか。大丈夫です。至善の対応策を考えましたのでご安心ください!


〜心の隠蔽テクニックを分析した上でアプローチする、主体性回復マニュアル〜


我々はどうやって自分の心を隠蔽しているのか

高校生の小論文を思い浮かべてみると話が早いです。小論文を見たことがないという人は、小泉進次郎のスピーチでも構いません。隠蔽のコツは

⑴なにか言ってそうでなにも言ってない
⑵過度な一般化
⑶自分は客観的な存在だと思い込む

です。それぞれの隠蔽テクニックを解説します。


【解説】 ⑴「なにか言ってそうでなにも言ってない」道

日本の伝統文化、茶道、華道、剣道などと並んで、「なにか言ってそうでなにも言ってない」道もあるのではないかと思えるほど奥深く、多くの人が熱心にその道を追求している道です。例えば近年多く見られるのが、何か多様性ブームを広告に取り入れようとしたものの、多様性について真っ向から考えたこともないし自分の身に引き寄せて考えたことも一度もない広告代理店のコピーライターの方が、できる限り何か言ってそうな感じを最大限に出しつつ何も言っていないコピーを作ることに心血を注ぎ込んでいるケースです。私が「道を熱心に追求していらっしゃるのだなあ……」と感じ入った例としては、服飾広告のコピーで

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