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ドライヤー、大丈夫? って聞かれたが、懸念通りに爆発はした

友人と電話で話しているときに、

「水野さんのドライヤーは大丈夫ですか?」

と聞かれた。最初はなんの話かわからなかった。
詳しく尋ねると、どうやら巷では、私が使っていたものと同じ型番のドライヤーが爆発する事件が頻発しているらしい。頻発しすぎて大ごとになり、今、ニュースでも報道されているらしい。私は

「そのドライヤーだったら、もう爆発した」

と答えた。爆発は、二度した。


最初の爆発は、髪を乾かしている最中に、ドライヤー内部の機構が爆ぜる形で生じた。ポップコーンが弾けたような軽い音がして、周囲には焼却炉の臭いが漂い、内部からはガンプラの破片が転がっているような渇いた異音が響いた。ドライヤー本体は、不吉な微音を放ちつつギリギリの動作を保った。保っているのをいいことに、私はいったん「爆発」を無視というか、スルーした。

ひとまず(自分の中では)爆発はなかったことになった。私はブローを継続しながら「爆発した」とも「爆発してない」とも思わなかった。「言うほどの爆発じゃない」と思った。ギリギリなかったことにすればなかったことになる。そんな爆発だ。暗い気持ちになった。こんな話は誰にもできないではないか。

人がわざわざ「墓まで持っていく」と宣言している話は、必ずどこかで打ち明けられるときがくるんじゃないかと思う。なぜなら、「墓まで」と言っている時点で打ち明けの伏線を丁寧に貼っているようなものだから。本気で黙っておくつもりの人は、シンプルに黙ればいい話で、わざわざ墓を持ち出す必要も義理もない。「二度と飲まないから今日だけお酒を飲ませて」と言っている人とやっていることの根本は同じだ。そういう意味で、ほんとうに誰にも語られずに墓まで持ち込まれるのは「軽い爆発の話」だと私は思う。ドライヤーに限らず、電子レンジで調理を試みた餅とか、ガスコンロにかけて作るタイプのポップコーンとか、そういうものがもたらす命に危険を及ぼさない程度の軽爆発が、しばしば人生にある。こういった軽爆発は、その場に直面したものにとってしか現実味、リアルさ、臨場感が立ち上がってこないから、人に話したところで肝心な部分は伝わらない。

これは、たとえば北極でオーロラを目撃した人が、口でその体験の内容を説明しても、その場にいなかった人にとっては意味がない、といった話に近い。それでもこの場合は、オーロラに(オーロラを目撃した人物が目の前にいるという状況の物珍しさに)ありがた味があるから、一応の会話は成立すると思う。それに比べて「軽爆発」は、ありがた味からはズバ抜けてかけ離れている。この世で最も会話をする意味がない現象だ。あらかじめブラックボックス化することが定められた現象というか。

軽爆発の言えなさについて考えているうちに、私は「爆発」という現象そのものから、その上にある解釈のレイヤー上にジワジワ意識をスライドさせることに成功しつつあった。今なら爆発を、金曜ロードショーの放映中に差し込まれるCMのような、「存在はしているが本編には影響を及ぼさないもの」として捉えられそうな手応えがあった。
この手応えをあざ笑うかのようなタイミングで、ドライヤーは再び爆発をした。クラッカーのような音を立て、今度はドライヤー上部の筒状の機構がはじけ飛んだ。フローリングの床に、一抹の高級感とチープさが入り混じった白と銀のプラスチック片が散らばった。破片はプラスチック感が強いのに、「死体」という印象もわりとした。さすがに、爆発を認めざるを得ない状況だ。
しかし、ここに至って私はまだ「なんとか爆発していないことにならないかな」という願いを捨て切れずにいた。なんでかというと、なにも悪いことをしていないのに買ったばかりのドライヤーが爆発してしまった人物は可哀そうだから。気の毒だから。同情されてしまいかねない余地があるから。
一介の市民としてこの状況を普通に考えた場合、このような、「気の毒とされてしまうフィールド」から抜け出すための不断の努力を行わなければならない。それが、ものすごくめんどくさい。極めてめんどうさくてやっていられない。

具体的に、なにがどうめんどくさいのか。

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