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ウケるしかないウケていることにするしかないウマは走るしかない

・死因:ゴルフ


所用があって実家に帰省したら、

「近所の人がゴルフをやりすぎて皮膚がんになり死んだ」

と、聞いた。ガマンならず、その場で腰が抜けるほど大爆笑をしてしまった。こういうところがよくない。本当にそれはよくわかっている。でもどうしようもなかった。すみません。怒らずに気の毒とどうか思ってください。

なにが面白かったのか。

亡くなった方はスネ夫一家のような、いわゆる成金的なライフスタイルをやっていた。その点を加味すると、

成金 → ゴルフ → 皮膚がん → 死

という流れになる。美しい。新聞4コマ的な美しさがある。完璧と言っていい。ここからなにを足す必要もなく、なにを引く必要もない。この4コマを読んだ人だって、これに対して一切のコメントを思いつかないだろう。
現していることの目的が明確で、意図された目的や意味合いだけがそこに配置された全てという4コマがあったら、それは、ドラゴンクエスト4コマ漫画劇場としてはうれしくありがたくても新聞4コマとしては間違っている。そんなものを新聞で読んでしまったらむなしくて、やっていられなくなるんじゃないか。会社で働いていた(働けてはいなかった)ときの自分が読んだらそうなるだろう。
新聞で読むちゃんとしたオチはなんだかむなしい。起承転結はむなしい。「目的」や「役割」以外になにがあるのかわからないまま目的に向かっている事実が自分バレしてしまいそうだ。そんなにむなしいものを紙面で見せつけられたら、がんばって人間詰め放題現場のような電車の車両に自分の肉体を捩じ込む意思がくじけてしまうではないか。

新聞4コマにはもっとこう、オチとか起承転結などの定まった定型的解釈を超越する生命のパワーというか、ヤバさ、エグさ、怖さ、またそういったヤバ怖エグさに対する超常的な平常心が含まれていないと読んでいる側は助からない。後の世の中の倫理観で見たときには共食いよりやばいとされるかもしれない人間の密集に飛び込むという狂気の行いに突入する麻薬より上をいく凄まじい鈍麻が、冷める。競馬場のお馬さんみたいに走れない。お馬さんとわかって走れない。ヒーポコヒーポコ走れない。生きるのに疲れても走れない。

だから、新聞4コマを描ける人なんてあんまりいないんだと思う。新聞4コマじゃない漫画で新聞4コマっぽい漫画といえば、『COJI-COJI』『ちいかわ』『ポプテピピック』等があるけど、どれも尋常な漫画ではない。

そういった観点で見ると、冒頭のエピソードには超常とそれに対する平常心が均衡につりあう形で含まれていて、美しいとすら感じる。因果と不条理のつりあいと言う意味ではオチが死というのもすばらしい(そう感じる私の人間性はすばらしくない)。

成金 → ゴルフ → 皮膚がん → 死

を短編映像にするとしたら、「成金」と「死」は静的な画(情景を見せるカット)になり、「ゴルフ」と「皮膚がん」は動的な画面(アクションを見せるカット)になると思う。こうなると、動的なものへの解決のなさが浮き彫りになっている点もすごい。動的なもの、つまり人間の起こすアクションが常に「解決」や「オチ」「終わり」と何かしらの形で紐づいていてほしいという願望が無視されている。「ゴルフ → 皮膚がん」間で無視が起こっているのはまだ理解できるが、「皮膚がん → 死」間でも無視(全く太刀打ちできていない)が発生している徹底にグッときてしまう部分がある。ゴルフの練習場のことを「打ちっぱなし」と言うが、この場合は「死にっぱなし」だ。(死に練習はないのに)
むさしさには社会的なむなしさ(休日なのに1日寝てしまった、結婚も就職もしていない等)と魂のむなしさ(社会適応のために鈍麻した神経が根腐れを起こして無痛なのに恐ろしいといった感覚)があり、新聞4コマの起承転結がしっかりあると喚起されるのは当然魂のむなしさの方だから、社会的なものを喰い破って突き出てくる野蛮な魂がさりげなく描かれていないとダメなんだと思う。そういう、喰い破ってくるものを直接爆笑すると社会的な立場には支障があるので、社会と魂の境の部分に立てておくついたてのように中間的な処理として「ウケる」という態度を配置することがある。

・「ウケる」「ウケてみせる」という態度

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