見出し画像

「他人の水風呂」の入り方

・「孤独」という言い回し、多用されすぎ問題


 私は以前から独自に「孤独の水風呂理論」というものを提唱しています。これは、

人間はそもそも孤独なんだからその事実にいちいちびっくりしているほうが時間の無駄である。
それは水風呂をお湯だと思って入って毎回驚いているようなものだからもう「水風呂=冷たい(人間=孤独)」の前提で入った方がいい。

といった理論です。


孤独の水風呂理論



しかし、私はこの言い方には補足、改訂を施したいと思っていた要素がありました。なんでかというと、

この状態(他人とのつながりが感じられなくて寂しい)を言い表すのに毎回わざわざ「孤独」というワードを持ち出すのは、それはそれで大げさ

という感覚もまたあるからです。

 「孤独」という言葉は、確かに普遍的で伝わりやすく、非常に使い勝手がいいのですが、その反面いったん持ち出すと言葉の持つイメージに今自分が置かれている状況が引っ張られて、誇張された過剰にドラマティックで過酷な状況であるように感じてしまうんじゃないかとも思うのです。

 試しにグーグル画像検索で「孤独」を検索してみると、「トンネルのような終わりの見えない暗がりの中に浮かぶほのかな明かり中で、顔の見えない人物が頭を抱えて苦悩している」感じのイメージが無数に出てきます。孤独という言葉を使っているときは、このようなドラマティックな構図に向かって意識というか自分の置かれている状況の認識が引っ張られていく性質が生じるんじゃないかと思います。

言いたいことはわかるが、やや大げさではないか(出典:ぱくたそ)

 事と次第によっては、まさにこのイメージが相応しい局面もあると思うのですが、ふとむなしくなったときの「ふと」の感じって、いつもここまでではないんじゃあないでしょうか。

 これはアレです。私は花粉症じゃないんですが、毎春花粉のピークシーズンになるたびにテレビCMで空気中に大量の黄色い粒子が散布され人類を猛襲しているイメージムービーを見ていると、イメージに引っ張られて痒くもない鼻が気持ちの問題でむずむずしてくるということがあります。

 あるいは「日本人は地震に慣れているから弱い地震では驚かない」という話がありますけど、これは地震に対して「人間にとってままならない自然エネルギーはしばしば理不尽に表出する、もともとそういうものだ」という認識のフレームがあらかじめ存在するからでもあります。これって、日本人は基本的に「地震の水風呂」に入浴する心の準備ができているとも言えると思うのです。
 一方で、例えばキリスト教の文化圏にいる人からすると、地震みたいな場面全体がいかれていまうタイプの災害に対して「人間に行いに対する神の天罰が執行された」という認識のフレームがあるので、慣れているかどうかとはまた別に脳裏に聖書にあるような天変地異の図像が浮かんで、必要以上に受け取り方が誇張された結果、ビックリの度合いが大きくなってしまうということが起こるんではないかと思うのです。つまり、そういう感じがあるのではないか。

「孤独」の用法においても大体これと同じようなことが起こっている。要するに、「孤独」という言葉は認識にある方向づけをしてしまうので、便利だけどそれだけに一本しない方がいいのではないか、と思うのです。

 また「孤独」という言い回しには、集団で行動する能力を種の最大の長所としているヒトという種族的にはNGだろう、だからエネルギーを注いででもその状態を全力で回避しないといけない、といった雰囲気も出ています。
 これは実は結果と原因の認識が反転していて、集団化することが得意な種族だからこそわざわざ「孤独」に対するセンサーが内部に備わっているので、それを感じられるのであれば人間としてうまくいっている証拠なんですけど、感じている主体としては解消しないとダメな気がしてしまう。間違っているかもしれない可能性に打ちのめされて心が疲れてしまう。総じて、人間が振り回されやすい概念だと思います。

・ラッキー孤独

 私は「孤独」で言い表せる周辺感覚にはわりとポジティブな印象も抱いています。例えば、マイナー温泉街みたいなところにあるほぼ確実に人が来ないゲームコーナーにいるときの、場所と自分との関係が全くの無縁であるところから来る心地よい開放感とか。

 あと空いている水族館に併設されているわびしい憩いコーナー。自販機とパンダの乗り物と小さい水槽とベンチが二つあるくらいの。今さんざん水族館の魚を飽きるほどに見てきたところなんだから、苔むした金魚の水槽が配置されたところでなにがどうなるというんだ、というどうしようもない脱力感。今この瞬間に自分以外の人類はアポカリプスを迎えているかもしれないという想像を広げる余地すらある、あの脱力感が持つうどん生地のような粘弾性にひとしきりくるまっていたい気だるさ、世界のキュートさ、他人をある程度許せる気持ち。

 あのわびしさ、寂しさの心地いいひろがりというか「ほっといてくれる自由さ、地味でたのしいかわいさ、素朴なおかしみ」みたいなものも、孤独という言い回しではその言葉が持つ逼迫した切実さや人間の魂の構造上の不備に目が惹きつけられるあまりに塗りつぶされてしまう気がします。

 確かに孤独という言葉にはそれが持つ独自の魅力もあります。

ここから先は

2,652字

¥ 500

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

よろこびます