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なぜビジネスマナーはバカバカしければバカバカしいほど有難がられるのか


・なぜビジネスマナーはバカバカしければバカバカしいほど有難がられるのか


 みなさんは、不思議だと思ったことがありませんでしょうか。なぜ、ビジナスマナーはバカバカしければバカバカしいほど有り難がられるのか、と。私は小学生の時に「給食の際は牛乳以外の飲み物を飲んではいけない」という謎のルール(パワハラ)に直面して一刻も早く大人になりたいと心の底から願ったのですが、大人は大人で小学校の目的が不明の校則と同レベルの謎ルールに振り回されているのが常です。

バカバカしいビジネスマナーとして有名なものをあげるとこのような感じです。

・ハンコを捺印する際に傾けることで印影がお辞儀をしているような趣を演出する
・クレジットカードは名刺と同じように両手でうやうやしく受け取る
・スマホでメモを取るのは失礼なので紙とペンで取る
・色のついた飲み物をオフィス空間で口にしてはいけない
・出されたお茶を飲んではいけない

書いているだけで著しいストレスを感じます。私はフリーランスなので自宅などで仕事をしていますが、取引先とのメールや打ち合わせなどはあるので、このような非合理的な無意味さに、要所要所で困難さを感じてきました。しかし、ある時社会性全般にまつわるコツがわかったのでそれ以来は楽になりました。社会性全般にまつわるコツとは一体どういったものか。それを説明するにあたって、過剰とも言えるビジネスマナーのバカバカしさが非常に分かりやすい切り口になると思い至ったのです。

・なぜバカバカしいのか

 まず前提として、社会全般で求められる社交性というものが基本的には全て小芝居であることを認識する必要があります。小芝居ですから「マジ」を言ってはいけないのです。道徳教育の場で「嘘をついてはいけない」という触れ込みを教えられることがありますが、これは完全なるデマなので信じてはいけません。じゃあ実際にNGとされているものがなにかというと、それが「マジ」です。学校で絶対に教えてもらえない最大のルール、それが


「マジを言ってはいけない」


単純にこれを教えてあげた方が今後社会の中で生きていくしかない子供達にとっては絶対に親切なのですが「マジを言ってはいけない」と発言すると、それ自体がタブーである「マジ」になってしまうので教えることができません。しかし、嘘は社会生活を送る上で大小の差はあれ無いと成立しません。社会の要請に対して、求められている範疇で適切に対応し続けるには、絶対に嘘が必要になってくるからです。私はこういった社会のルールを理解するのに時間がかかってしまったので、駅前で

「少しお時間ありますか?」

と聞かれた時も

「あるかどうかといえば、あります(なぜなら生きているから)」

と答えたりしていらぬ苦労をしてまいりました。この場合、実際に時間があるかどうかに関わらず、相手の話を聞くのが面倒な場合は「ない」と回答するのが適切です。相手の方も、こちらの状況に応じて適切な嘘をついて欲しいと思っているから、わざわざ嘘をつきやすいように「お時間ありますか?」と聞いてくれています。この程度のやりとりで内容が嘘かどうか考慮することは通常はあまりないでしょうが、適切な嘘を前提とした場で基本的には世の中全体が構成されています。これは、決して悪意ではなく、なにかと複雑で面倒な「マジ」を完全に排除して円滑にやりとりを行うための知恵です。お金に対して、それ自体になにか価値がある紙だと思い込まないと生活が立ちいかないし「これ自体は紙じゃん」というマジを言われると場がおかしくなるといった話です。

私自身は場合によっては「マジ」でやりとりした方が話が早いだろとも思いますが、かといって様々な立場による剥き身の「マジ」がむき出しになった世の中も危険で行動範囲が制限されるので、やはり全体の利益を考えるとある程度の共通のバカバカしい思い込みが必要となってくる場面があるのも止むを得ません。

因みに、日本語には本音と建前という言葉がありますが、ここで取り上げている「マジ」とは本音のことではありません。本音と建て前とは、あくまで社交上の都合や、ビジネス上の利害を考慮して使い分けられる”便利な嘘の中の二面性”であって、このような損得勘定可能な領域の外側にあるのが「マジ」つまりは社会合理性の都合を一切超えたところで勝手に生きている自分の心だからです。本音はタブーではありませんし、酒の席で本音を打ち明ける、などの行為も言ってしまえば小芝居の一部です。


こういった一連の事情を理解せずに自分の「マジ」を阻害され続けると、最終的には最悪死ぬ羽目になります。

・「土下座」「切腹」というビジネスマナーの頂点


 不可解なビジネスマナーの頂点が、土下座・切腹という「概念としての二大ハラキリ」なのではないかと筆者は睨んでいます。どうしてこれらがビジネスマナーと言えるのでしょうか。切腹とは実際に自分の腹を切って死ぬ行為を指しますので、直感的にはこれらがビジネスマナーであるとは受け取りがたい部分があります。流石に小芝居の範疇で人が死ぬとは考えにくいからです。しかし、小芝居で人が死ぬことがあり得ないのであれば、小芝居の範疇で尊厳が放棄されている状態、つまり土下座もおかしいはずです。

土下座・切腹が小芝居である根拠は、これが相手にとってなんの得にもならないどころか、むしろ迷惑行為であるという点です。どちらも謝罪という名目で行われはするものの、目の前で人間としての尊厳を完全に放棄し地面に頭をこすり付けたり、独自の理屈で詫びの名目で血しぶきを上げて自害をされても迷惑なだけですし、そうされてしまった以上は内心がどうあれ許した仕草を繰り出すほかありません。

小芝居というとたわいもなく現実的に影響を及ぼさないものというイメージがありますが、社会が小芝居によって成立している以上、小芝居にはそれに付き合った人間を死に追いやる力が当然理にあるのです。

 実際に、この文章を書いている最中に喫茶店の店内で結構な揺れの地震に遭遇したのですが、店員の方は揺れている渦中なのに

「お待たせいたしました〜」

と店員さんの小芝居で言っておられました。結構な揺れの最中に「お待たせ」もなにもないだろうと思うのですが、小芝居の渦中において、自分の命がどうなるかはさほど考慮されていないということが端的に分かる事例です。


・小芝居で死なない為に考えられる方針


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