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最近しばしば言われる褒め言葉で

「言語化が上手い」


というものがある。褒めてくれているわけだからすごく嬉しくはあるけど、こればかりを言われると、「なんでだよ」と言う気持ちが胸中に湧いていく。画力褒められてるみたいで。

画力については、私は見るからに画力がありますなあという絵は描かない(全然描けない)ので褒められたことはないけど、やっぱり画力ばかり褒められている状況を見かけてもうーんそうですかという気持ちが若干生じる。内容だろ。すごい絵って、画力すごいけど、内容もすごい。冷静になって、画力についての評価軸を一旦外してじっくりとみてほしい。内容がすごい。内容のすごさに一旦驚いてほしい。この人物はこの内容を、誰にも打ち明けずに一人で考えて、勝手に描いているのである。それは自然に湧き出る泉のようなものでは恐らくないだろうから、資料を集めたりもしているのだろう。別にそこまで意識しなくてもいいけど内容に言及した方がいい。文章や喋っている言葉なんかもそうで、言い方も大事だがメインは内容だろ。喋っていることなんかより一層内容がメインである。というか内容であってほしい。世の中で重宝されているのが言い方ばかりで、それもまあ仕方がないことではあるが、あり方が極端ではないか。

技術の達成度をメインに表現を見るのって、本来かなりマニアックな研究者の人とかがやるやり方なのに、最初からそこにばかり心を動かしているのは情緒が半身不随のようでもったいない。そういったものの見方が当然になっていることに弊害も感じる。何かを表現したい人、「言語化方」「画力」「共感力」とか、そういうなにかしらの「力」ばかりを伸ばそうとしていないだろうか。余計なお世話かも知れないが、そういう発想で表現をやると、超辛い。辛いというか、地獄を見る。ほんと。これは誇張で言っているのではなくて、精神を病んで入院とか、そこまでいかなくても実家でほぼ寝たきりの虚無の2〜3年とかを過ごすハメになる。これは美大に通ってた人ならなんとなく理解できると思う。受験を勝ち上がる為に、内容について好き勝手考える前に一旦頭の内容を真っ白にして伝え方だけを叩き込む。高校の授業が終わった後に1〜2年予備校に通ってたくらいならまあ、その後紆余曲折を経てなんとか気を取り直すことに成功する人が多いけど、2〜3浪以上してしまうと頭が真っ白なままで、心を自己否定したままで真っ白なキャンバスを見て気が遠くなるノイローゼ状態がかなり長期に渡って続く。あまりにも残酷で、書くのが躊躇われるが、こんなことを誰も言わない方が残酷だろう。一般的に、心をロボトミー的に切除して技術をたたき込むと親御さんは安心をする。安心している場合ではない。大事なお子さんの、心が徐々に、不具にされつつあります。

「社会適応」ってそういうことだから。それも、わかる。

誰も悪意があってこんなことをやっているのではない。内容が素晴らしくても、伝えられなければそれはそれでかなり悲惨である。周りの人間の優しさ次第で、「ユニークな芸術の方」とかの人生をやっていくことができるかもしれないが、内容が鮮明に濃密にあればあるほど伝え方のない不幸は残酷に際立つ。それを避けてあげたい親や教育者の情愛も痛いほど理解できるんである。社会から見るとより悲惨なのは後者で、個人の視点で見るとより悲惨なのは前者となる。どっちがいいのか。どっちもよくはない。技術を身につけるには、心で感じたことを頭で噛み砕いて自分なりのやり方を考える過程が必要であって、なんであれこの過程をサボり続けると呪われる。悪魔に取り憑かれたようになる。技術と心が完全に分離して、どちらかを動かす度にどちらかが沈黙して自分のためにある技術と自分のためにある心がそれぞれお互いに自己を阻害するのである。情緒面における自己免疫不全が生じる。

どうしてこうなっているのか。

端的な問題意識では、いわゆるチャップリンの『モダン タイムス』のようなイメージというか、「資本主義の要請する過剰な産業効率に阻害される個人の人間性」という見方が可能である。もちろんこれ一理はあると思うんだけど、日本人の場合はまた別軸の価値観が物事をややこしくしていて、そのせいでより問題が深刻になっているのではないかと思う。

そもそも、日本の伝統、工芸、民芸などには個人の自由意志や自己表現とかいう発想は全然ない。技術の中に己を埋没させ神経を研ぎ澄ませたところに精神の広がりや(西洋から見れば)逆説的な自由があるという考え方が民族的な価値観のベースにある。だから個人の主張が強いアーティストよりも、技法や手法の中に埋没して個の気配をある程度(ほどほどに)脱臭している作家の方が基本的には好まれやすいというか、しっくり来やすいというか、なんというか反感を持たれにくいというか。なじむ。そういう感覚があるものだから、良かれと思って教育者なども「まずは技術(を徹底的に叩き込んで生半可な自我を一旦無化するのがよい)」とか考えてしまう。しかも、結果的にその方が為になるという利他性からくる発想でやっているものだから、そこに生じている弊害にはなかなか目が向かない。ちょっと待って欲しい。一回冷静になって考え直して欲しい。軍隊みたいな発想になってしまっているから。本当にそれでいいのか。

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