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個性の大学

【「好きなことで生きていく」で生きていく人々】

 2017年ごろでしょうか

「好きなことで生きていく」

というポスターが、駅構内に張り出されているのを見て辟易しました。
まだ、そんなことを言っているのかと。

 例えばエステサロンの広告に、「一般的に悪しきとされる箇所に体毛の生えている女性はゴボウ同然」だとか「ハゲている男性は漬物石よりも地位が低い」だとか市民のコンプレックスを刺激する脅迫的なコピーが使われていたら明確に非難されるだろうし、それを受けて取り下げられる可能性が高いでしょう。

 その一方で「個性」だけが野放しになっている。

 なぜなら「個性」は素晴らしいものだと思われているから。

 無条件にいいものだからと信じられ、否定してはいけない人間存在の最後の砦のような扱いになっているから。

だからといって、呑気な顔で無防備な人の心を脅迫し煽情的に煽り立てている。

「好きなことで生きていく」

というコピーは、裏を返せば

 「好きでもないことで生きているあなたって、一体なんですか?」

(=取るに足らない路傍の石・ゴミクズ・芥以下です)

という脅迫でもあります。むしろ明確に脅迫の体裁をとっていない分、たちが悪い。一見まろやかな語り口調であるからこそ、ジワジワと人の意識に刷り込まれるのです。特に若者の手取り賃金が極めて少なく、時間外労働が常態化している環境下でこのようなメッセージがいかに社会に出る前の若者の精神に影響を与えているでしょうか。結果として「何か個性を表現しなければならない、好きの力を発揮しなければならない」と考えすぎて苦しんでいる10代〜30代の人がすごく多いのではないかと最近特に思うのです。

 そもそも、冒頭のコピーはYouTuberとタイアップした広告ですが、YouTuberは別に個性を発揮して、また好きのパワーを爆発させて生きている訳ではありません。収益性が取れる程度に需要があり、元手と収益性のバランスが良く、自分が興味がある領域の中から採算が取れそうな内容をコンテンツ化しながら試行錯誤しているだけです。(「だけです」というか、かなりすごいことを継続的にやっているのには違いありませんが)

だから結果としては、プチプラコスメの紹介やユニクロの着こなし、コンビニ新商品の紹介などが一般的な内容になっている訳で、これらが嫌いな人はいないと思いますが自己の存在や尊厳をかける程に好きで仕方ないという人は少数でしょう。

 つまり、「好きなことで生きていく」というより「需要あるで生きていく」つまり「平凡(一般的な感性で共感しやすい内容)で生きていく」と言った方がどちらかといえば適切であって、

「好きなことで生きていく」

というコピーは、マーケティングされた上で発信されているフィクション(素敵な作り話)のようなものです。それでは、どういったマーケティングを元に上記のコピーが用いられているのかというと、それはやはり

・個性を発揮して生きていきたい
・何かが好きな自分として有名になりたい

という切実すぎる願望が、当たり前のように特にSNSに親しんでいる若年層の間に刷り込まれてしまっているからです。

 しかし、よく考えて欲しいのですが「個性」「個性」と簡単に、ごくありふれた概念として扱われる割に、「そもそも個性とは一体なんなのか」という大前提の問いが不足しすぎています。

もしもあなたが「個性的」になりたい、もしくは「個性」に憧れているとすれば、その前に個性について一度じっくりと考えてみるのが近道だとは思いませんか?


したがって、ここに個性について改めて一から考えてみる「個性の大学」を開講します。


【目次】

 まえがき 「好きなことで生きていく」で生きていく人々

前編 どうして「個性」を求めてしまうのか

・「個性」ってなに? 〜時代背景・教育思想・経済が相互干渉して生まれた矛盾の総体を生きる〜
・そもそも個性とは
・「個性」の手段と目的が転倒していく渦中に現れた「個性劇場」
・「個性」が個人を阻害する
・一発逆転はない

【コラム】「インターネットでなぜか大企業に感情移入する人」

後編 「個性」のトリセツ 〜それでも個性が欲しい人へ〜

・個性はむしろハンデ
・個性を認めてもらう為に必要なことは
・果たして、面白いのか
・個性では解決しない諸問題
・それでも個性を生かす方法 



【「個性」ってなに?】〜教育・教育思想・経済が相互干渉して生まれた矛盾の総体を生きる〜

 きっかけは一つの疑問でした。住宅街を歩いていた時のことです。道端で中学生くらいの女の子が、泣きながらスマートフォンを頭上にかざしていました。何かあったのかもしないと注視すると、彼女がTikTokに投稿をしていることに気が付きました。おぼつかない足取りで不安になったのですが、ひとまずその場で見ていることしか出来ませんでした。同時に、ここで一時的に声をかけても、なんの解決にもならないだろうとも感じました。

どうして路上で泣いているのか。今、目の前の人間の目には見えない内心の部分で、はたして何が起こっているのか。彼女はおそらく「個性」を得ようとしているのだと思いました。

「個性」を発揮できる立ち位置を得て、社会に承認され経済的にも自立したい。

だから、車道にはみ出し涙を流しながら動画を撮影している。

どう考えても、前半と後半の動機と行動が噛み合っていません。そもそも、動機の時点で様々な種類の願望が複雑に折り重なっていて、行動原理としては破茶滅茶な状態です。しかし、このような破茶滅茶な噛み合わない動機と行動を目撃した筆者が容易に行動原理を推測できるのは、なぜなのか。


この時目撃した光景が「個性」にまつわる複雑な誤解について考える出発点となりました。


【そもそも個性とは】

 筆者は1988年の末、つまり昭和が平成に切り替わる直前に産まれました。いわゆる「ゆとり世代」です。ゆとり教育とは詰め込み式の受験教育への反省から「一人一人の個性を尊重し、学問以外の側面にも人としての価値を認め尊重しよう」という指針から取り入れられた教育方針なので、特に義務教育の範疇では盛んに「個性」というものが叫ばれていました。

 しかし、そもそも「個性」についての教育をしていた人々は、いったいどの程度「個性」について考えていたのでしょうか。「個性」は「個性」だから大事なんだ、とまさにお役所仕事的に指示された建前やスローガンを生徒に鵜呑みにさせる教育姿勢からは「個性」の尊重というよりはむしろ画一的なスローガンを押し付けているような印象を受けました。

 当時ゆとり世代を象徴する流行として、『ビリギャル』『ドラゴン桜』などの「学校の成績が最底辺の人物が一般的に高学歴とされる大学を目指す」という物語が注目されていました。これらは「ゆとり教育」という偽善的なスローガンでは解決しない問題、つまり教育現場では建前上良いものとして丁重に扱われている「個性」では特に人生がよくならないという現実的問題からくる社会的要請に従って生み出された物語だと考えられます。『ドラゴン桜』の中に象徴的なセリフがあります。

「ナンバーワンにならなくていいオンリーワンになれだぁ? ふざけるな」
「オンリーワンていうのはその分野のエキスパート ナンバーワンのことだろうが」

 上記のセリフはこれだけで「個性」の内実を解き明かしているとは言えませんが、当時極めて定義が曖昧なままに用いられていた「個性」という概念に対して、一つの明確な視点を示しているものと言えます。


【「個性」の手段と目的が転倒していく渦中に現れた「個性劇場」】

 このように当時の学校教育では詰め込み式教育への反省として「個性」が尊重されていたものの、そこで扱われる「個性」の内実は明確な定義がなく

「誰もが生まれながらに持つ掛け替えのない才能」

という、かなり曖昧な意味合いで用いられていました。そのせいで、才能を評価するということはつまり他者と比較し差異を価値づけるということであるにも関わらず、「他者との比較をせずに(絶対評価)本人の独自性、固有性を認める」というよくわからないことが起きていました。現代であればこれが「多様性」というワードに置き換えられているのでもう少し無理が少ない解釈もできるのですが、「個性」いう概念には、能力を価値づける社会からの等しい逃れがたさへの視点や言及がなかったのです。

 またバブル経済を経験した直後の日本社会では経済的価値以外の人間的価値や、そもそも価値がないものに意味や意義を見出すという視点が欠如していたが為に、

「経済的評価を生み出せないものにはそれ自体の価値を見出せない」

という問題を抱えていました。そのために

「個性=なんらかの生きる手段を構築するための、スキルや技術」

という意味付けが自然理に発生してしまいました。このようにして「個性」とは一般的に職業選択とセットで考えられるものとされるようになりました。

当時「個性を重視するゆとり教育」と同時に進行していたのが、小泉政権による構造改革です。これにより、労働の自由化、雇用の調整弁としての非正規雇用者の増加、終身雇用制度の崩壊などの社会現象が進行しました。この時に流行した言葉が「自己責任」です。ゆとり教育による(誤解を含んだ)個性の尊重と労働の流動化(自己責任論)が同時に進行することで、この時点で


「個性を発揮して自分らしい職業に就労し輝けなかった場合自己責任」


という、のちの「好きなことで生きていく」というコピーが特に違和感なく受け入れる状況の布石になるような、諸問題を含んだ価値観が一般化されていきました。こうして一行の文章にしてみれば、どう見ても破綻した内容としか思えないのですが、このような考え方はむしろ先進的な考え方として前向きに捉えられていました。

それは、なぜか


【「個性」が個人を阻害する】

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