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「実力」の定義

「需要ありますか?」

という質問が、SNS上では半ば定型句と化している。

「私のメイク配信って需要ありますか?」

「サブチャンネルでバイクの話しようと思ってるのですが、需要ありますか?」

定型句だから応えるフォロワーも、「はい需要がここにあります」などとは言わず、黙っていいねボタンを押している。このようなフローを経て需要があると判断された場合には、需要に伴った規模の供給としてなにかしらの行為が行われる。供給をする側よりも、需要を発生させている側が川上にいるような錯誤を催す風潮の力学はどのSNS上でもある程度蔓延している。特に与えられたシステムに沿って人生の大枠を構築することになんら疑問がなく、ありがたくバズりを享受している人からは、私はこのような意見を投げかけられる。

「 YouTuberやればいいのに。絶対人気出ますよ」

フルマラソンやればいいのにとは言われないのに、どうしてYouTuberは頻繁にやるよう促されるのか。42.195キロを完走するように他人に勧められる謂れはないだろうと予測できる人々が、毎日動画を撮影し編集しアップロードするような日々に身を窶すことを他人に斡旋するのはなぜか。「やって欲しい」なら分かるけど、「やればいいのに」とはどういう発想なのか。いいかどうかを、誰がどこで、どう決めると思っているのだろうか。


 この奇妙な齟齬が発生する原因は、冒頭で述べたようにSNS上でのふるまい、行動原理が徹頭徹尾「需要」に付き従いコントロールされているように「見えてしまう」構造が横たわっているからだ。しかし、そうではない。「実力者」は別のところに行動原理がある。ここで言う「実力」とは、私が日頃から用いている独自定義の「実力」であって端的に言えば

「それをやっている本人の中に、動機がある」

状態を「実力」としている。したがって、世間一般的に需要があるかどうかではなく自分の内心に物事を行ったり金銭を支払ったりする動機を見出せる人物のことを私は「実力者」と呼んでいる。

「実力」があるという人は自分の心の中に需要を作ることができるので、最大公約数的なスタイルで要求に呼応するように発信をするということを最初からしていないし、最大公約数的な拡散のルートに自らの行為を載せることもしない。だからそもそも需要の川上にいると思っているインターネットユーザーが「実力者」を見かけることはほぼない。そうやって全てが需要によって形作られているように見える世界は拡散されていくように見せかけながら閉塞的に、閉じていく。

これは何もインターネットネイティブの世代だけに必ずしも発生する事態ではなくて、主に主流のメディアがテレビ放送だった世代にもある。そういう人はあるいはこんなことを言ってくる。

「芸能人なんだから敬語を使わないと好感度下がるぞ」

これも、需要の川上の原理で他者をコントロールできるという勘違いが生じてしまっている一例だろう。今になって見るとどうだろう、おなじみの芸能人がおなじみの話題を繰り広げているテレビバラエティーの世界は、今だにかなり多くの人に視聴されているとはいえやや時代遅れで閉鎖的なフィールドにも見えるだろう。動機の発信源をやってくれるような人が少ない場は緩やかに停滞しながら閉塞的になっていく。そういった人は近年では大体SNS鍵アカウントで面白いことを言っているんじゃないだろうか(と思われる)。これが例えばラジオのハガキ職人だったり、ファンロードのお便りコーナーだったり、『笑っていいとも!』でその日アルタの一階に来た人が出演するコーナーだった時期もあったんだろうなと思う。

 自分の心で需要が作れない人が発信者になるとどうなるのか。

本人の中に動機を持っていない人々は路上販売のキッチンカーのように、今ちょうど需要があって求められる広場のようなところで求められるものを販売すると言うことをしている。そうして集まった人々に問いかける。

「需要、ありますかね」

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