平井堅には感謝してもしきれない

もはや事実なのか、それとも私の過激な思想が生み出した半ば願望の投影の産物なのか判然としないがかつて幼少期に見たミュージックステーションに出演している平井堅は過激だった。 MCのタモリに

「僕は顔のホリが深いので、僕の顔が洗面器です」

というような話をしていた。
当時の私からするとそれは単に平均から外れている諧謔というよりも、もっとクリティカルな言及をしているように思えた。

つまり

「毎朝、洗面器で顔を洗ってはいるものの、自分はホリが深いのでこちらの顔がむしろ洗面器なんだよ」

という視点。それを平然と持ち込む態度。

なんだか他人事とは思えなかった。どう考えてもこの世になんの違和感もない人間が「こちらの顔の方がむしろ洗面器」という視点を持ち出せるはずがない。誰しも生きることには苦労がありますけれども苦労にも一般的な苦労とやらなくてもいい独自の苦労がある。一般的な苦労とは「意に反する労働をしなければならない」、「隣人が顔を合わせる度に感じが悪い」、「税金が高すぎる」などの社会運営上の都合、元々あるルールに基づいて自己のリソースを運用する際に生じる困難や消極的な選択を指す。独自の苦労とは、例えば漫画「ドラえもん」でのび太が

「栗まんじゅうはどうして食べるとなくなるのだろう」

と煩悶している様子などを指す。これは、本来やらなくてもよい。

なぜなら、これを考えたところで社会運営上のルールに基づいて運用されるリソース管理が有利になることは絶対にあり得ず、むしろ時間の無駄でありそうだからそうなんだよ、ところで確定申告を今年は青色にして節税しようなどの発案に時間を使った方が一見生存面で大いに得だから。

ところが、こういった独自の苦労を一切やらないでいると「社会運営上の都合からしてどうなのか」という経済合理性に主眼を置いた視点以外のフレームが消失し、最も合理的な家畜として個人または家族の生存管理をする責任者であるだけという人生になる。管理責任者であるだけの人生が苦ではない場合特に問題がないように感じられるかもしれないが、実際問題として一元的な合理性に自己を最適化した場合、そこで採用している合理性自体の非合理を認識できないという大いなるパラドックスといったら大げさですけれどもまあ普通に損・残念が発生する。だから洗面器として流通・販売されているプラスチック製の直径30センチ程度の簡素な容器よりもむしろ、自分の眼球の窪み周辺がなす奥行きを持った空間の方が機能としては洗面器的であるかもしれないという発想は広い視点で考えた場合実利をもたらすんだよ、そんな訳ないだろ、そうとも言い切れない。


なぜミュージックステーションを見ながらそんなに深刻なことを考えていたのか。


ここから先は

1,242字

¥ 400

よろこびます