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BOOK OFF自己申告事件を引き起こす人の世界

少し前に「BOOK OFFで買いました!」とか作者に言ってしまうやつはよくない。知らない人に話しかける上で最低限必要な気遣いが欠如している。
といった感じの話題があった。

これは確かにその通りで、

「生まれてこの方一度もチョコレートを見たこともがないし、カカオがなんの原料なのか知らないまま劣悪な労働条件で1日15時間働いているガーナの子供たちが収穫したカカオで製造したチョコレートなんですけど。よかったら召し上がってください」

と言いながらチョコレートを差し出すくらい余計なことを言っていると思う。もしくは

「内戦の資金源になっており人道上様々な問題を内包すると言われる、シエラレオネで採掘された通称ブラッド・ダイヤモンドの巨大な一つです。よかったら結婚してください」

とプロポーズをしているくらいの。
つまりは論外というか。

黙っていればシエラレオネの内紛や子供の貧困がこの世から消えて無くなるということは全くないが、説明することで今この場にそういう色彩に染まった世界がクリエイトされるという実態がある。

他人に話しかけるということは、自分の言葉によって召喚した世界に他人を招き入れるということで、そこで注視すべきは話しかける相手のリアクションではなく、どのような世界を召喚するか、への色彩感覚だと思う。だって、召喚する世界の色彩が定まっていたらそれによって生じるリアクションというのは、もうほとんど定まってくるものだから。特に初対面の場合は。
(料理を出してもらったら、大抵の人は大抵の場合「美味しい」と言うしかない。リアクションをする側はある程度不自由を負っているのだから、それ以上の圧はかけない方がいい)

擁護でも非難でもないが、BOOK OFF自己申告事件を引き起こしてしまう人物は無礼者というよりも、言葉には世界をクリエイトする能力が実態として備わっている、という感覚が希薄なんではないかなと思う。自分がなにを言ったところで変化が生じない鋼鉄の構造の中に生きている無力感と、無力感が反転した万能感のようなもの覆われているのではないか。一回性が希薄な情景。永劫回帰するデジタルトウモロコシの一粒。そういう景色の色は、例えば東京ビックサイトへ行くときにゆりかもめに乗車して物流倉庫が立ち並んでいるのを見ていると、ちょっと感じる。高度な「管理」が一極集中した結果、ほとんどの名前に命が宿っていないとそうなっていくんだなあって感じ。あるひとつのコンテナとその隣のコンテナの入れ替え可能であるように見える関係が、私とある一つのコンテナの関係にも適応可能であるかのように見えてくるというか。

だから本人も由来に気づかない程度の淡い攻撃欲求を言葉の端に滲ませてしまうのではないか。これは攻撃というか「入れ替え可能ではないものとして他者の前に忽然と現れてみたい欲求」が「共同体の中でうまくやっていきたい欲求」の重量を超えて音のない屁のように放たれてしまっている状態と言った方が近い。その屁は主体の観念の中では、にじむアポカリプスの日の静かな夜明け前、世界一面が赤く染まっていく前の仄白い薄紫の空、みたいな情景として詩的に描画されている。だから、2000年代エロゲの背景に描かれた静謐で美しくて物悲しくて切ない情景は他人から見たら無音の屁じゃないのかなあと私は思う。それは裏返すと他人から見たら無音の屁だからこそ一回性の美しい風景、体験として認識の内に鳴るものになれるという側面になる。

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