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「ネガティブ・ケイパビリティ」のよりグッとくる言い回しを熱心に考える会


・「ちょっとまってください」 と言いたくなる

最近「ネガティブ・ケイパビリティ」という語をしばしば目に(あるいは耳に)する機会があります。これは

「曖昧で不確かではっきりとした答えが出ない問題について、早急な結論を出さず、わからないまま問いの渦中に止まる力」

ネガティブ・ケイパビリティ

を指しているそうです。

確かに、生産性や効率、結論、要約した意義のようなものばかりが過剰に求められ、誰しもが自らの価値の総額について深刻にならざるを得ない現代人にとって「バズりそうなひとことを言わずにグッと留めておく」みたいな感覚はすごく大切なんだよ、ということが言いたいのはよくわかります。そうなんですけれども。
でも、なんというか、その、ほら、アレですよ。人間ってそんなに言われたままをそのままスッとやれる感じではないというか。

「ネガティブ・ケイパビリティ」と言われてしまうことで「まあ、そうだなあ。確かに、そうなんだよな〜」という気持ちにもなれる一方、ある部分では腑に落ちないと言いますか。それで全部を言った感じになりすぎていると言いますか。
言葉で明示されることでかえってその言葉が指している実態そのものからは遠ざかっているようなもどかしさがある気がするのです。
「ネガティブ・ケイパビリティ」という言い回しには、心のあり用それ自体よりも「事実をどう解釈し、位置付けるのか」というマインドセット機能が強い。頭の働かせ方の部分に強くフォーカスが当たっていると言ったらいいんでしょうか。

もちろん、必ずしも言葉の響きが感覚の実態に隣接する必要はありません。というか、むしろ心情や感情、情緒のみた風景と切り離したところで状況を分析的に把握する能力というものが言葉の持つすごパワーの一つとしてあるのは確かです。でもね。やっぱりそう言われても感が拭い去れない。
なんでかというと、答えの出ない問題、アヤフヤさ、ややこしさ、ままならなさ、こいつマジなんですか感、みたいなものと直面している瞬間の自分の心は少なくとも

negative capability…(天野喜孝のイラスト)


といったクールでオシャレなムードでは全然なく、もっと「うーん、そうですかーいやーなんでしょうこれは」といった、全くオシャレではない、ダサいムードにまみれているからです。
なんでこうなっているときのムードは、そこはかとなく「ダサい」のか。

それは「うーん、そうですか」と思っている対象や状況が自分と同レベルのところ、自己と見分けがつかず混濁しかねないくらいに差し迫った域に存在しているからだかと思います。オシャレかつクールな態度を出すためには「私は状況を俯瞰して構造や状況を把握した上であえてこのような振る舞いをしているのですよ」といった態度(これをポケモンやカードゲームの対戦業界では「環境メタ」と言います)を出していく必要があるのですが、混沌としたわけわからなさの最前線で状況を目撃するためには、アヤフヤの渦中に自ら飛び込んでわたくしもろとも意味不明になっていくしかないから必然的にダサくなってしまうみたいな話。

しかしながら先ほども述べたように、態度をやろうとする前にはまず「自分が何をしようとしているのか」意識レベルで把握しておく必要があるのは確かなことです。したがって、たとえ実践的な感覚からは外れているにせよ、一体どのようなファイティングポーズが我々に今求められているのか示してくれるワードが必要であることは事実です。だから「ネガティブ・ケイパビリティ」というのは一種のヒントなのだ、と考えればその必要性については折り込めます。
喫緊の課題はその先、つまりどういう言い回しでこの態度(「ネガティブ・ケイパビリティ」と言われている態度)を感覚的に腑に落ちるところまで持っていくか、というポイントです。なにしろ、これは時代性の必然から取り沙汰されている言葉なのですから。

この問題に対して私はいくつかの提案があります。

提案が複数にわたるのは、「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉が指している状況の抽象性が高く、現場でグッとするためには、ここで指している「ネガティブ」の内容を場面ごとに限定する必要があるからです。

要するにネガティブ・ケイパビリティのケーススタディを提案していきたいのですが、私が今回提案したいのは以下の語です。順に解説します。

「嫌♪」
「ラッキーガッカリ」
「おいしい/マズイの前夜祭」
「極限で得るものがある損」

・「嫌♪」

「嫌」と「嫌♪」の違いがわかりますでしょうか?

実は、世の中には実は結構な頻度で「もはや嬉しがれるほどのイヤさ」が落ちているのですが、多くの人がこれをスルーして、あるいは単なる「イヤさ」として単純に処理しているように思うのです。これが、本当に、MOTTAINAI

「嫌♪」の具体例として最もわかりやすく、かつエンターテイメントとして美しく昇華されているものの一つが、ものまねタレントのコロッケによる「五木ひろしのモノマネ」だと思います。わかりますでしょうか。あれを単なる「よさ」「うれしさ」「心地よさ」として認識している人はほとんどおらず、あえて言うならば

「イヤすぎて、もはやいい」

という情緒で見ている人が多いのではないか。
なんだか「くさくておいしい」ものに少し似ています。
原理が近似しているものとしては「つまらなすぎておもしろい」「ダサすぎて、オシャレ」などがあります。なぜこのような情緒のオーバーフロー現象が生じるのか。わかりませんが、度がすぎたものは評価の基準自体に揺さぶりをかける効力があるからなんじゃないかと推測できます。これはよすぎる(よさの度合いが尋常ではない)場合にも言えることで、例えばあまりにも歌唱力が高い人の歌を聴いていると上手い通り越して面白くなってしまうことがあります。コロッケさんの五木ひろしモノマネが面白いのも、過剰すぎて、似ているかどうかというモノマネ本来の基準(鑑賞の態度)が破壊されてしまうからだと思います。
「イヤ」という気持ちは生命として存在の根幹に関わってくる手触りがあります。それは自分にとって世の中にあるものを「許容できるもの」と「そうでないもの」に切り分けるためのセンサーとして作動しているものだからだと思うのですが、センサーに異常値が入力されると自我がくすぐられておもしろい。せっかくおもしろいのに、この瞬間に受け取り方を目的化してしまうと(アン・ネガティブ・ケイパブルな態度を取ってしまうと)これを取り逃がす。ここにグッと耐える心の筋力が必要とされてくる。

私が最近観測した「嫌♪」としては、銭湯の電気風呂コーナーに鬼の形相で居座っていた年配の女性などがあります。まず「電気風呂」という発想(風呂に電気を流すという狂気の発想)が巷ですんなり受け入れられている感覚が個人的にはイヤです。しかしその部分は個人的なこだわりなので酌量するとして「電気風呂に居座っている人」だと単なる「イヤ止まり」という感じがあります。電気風呂にちょっと入る、ではなく銭湯の主のように居座っている人は、本人がやりたくてやっているだけなのに「電気を浴びている」というイキリ要素(HUNTER×HUNTERのキルアにおける「家庭の事情」のようなもの)が加わることで、なんだか少し、得意げなオーラを放っているのではないか。いや、そんなふうに感じてしまうこちらの心がひしゃげているのかもしれない。いやでも、やっぱりなにかは出ているな。そういうイヤさ。しかし、ここに「鬼の形相」というさらなる露骨イヤ要素が加わってくるとイヤすぎて「嫌♪」の域に達するといいますか。イヤすぎてもう、好きになってしまう。見てしまう。むしろありがとう。今後も期待しています。
そういうものが、この世にはある。

・ラッキーガッカリ

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