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「つかれさす」フィールドを回避する“毒の沼地”の歩きかた


 以前、「人間関係の基本=つかれさせない」という記事を書きました。ここで言う「つかれさす」とは

アヤフヤで不安定な自我を補強するために、他人のリアクション待ちをする

「つかれさせる」の定義

ことを指しています。他人を「つかれさせない」でいることができれば、大抵の人間関係はなんとかなるだろうという話で、これは本当にその通りです。が、同時にもう一つ忘れてはならない心構えがあります。それが

「つかれない」ことです。

 実際、生きる上では「つかれない」ことの方がより重要です。「つかれ」てしまった結果、削り取られるのは新しいことにチャレンジする活力で、これがないといつまでも人生をやりたいようにしていくことができないからです。誰だって自分の人生の理想にエネルギーを注いでいたいのは当然ですから、「つかれさせない」ことよりも「つかれない」ことについて先に語った方が親切かもしれません。

 しかし、実は「つかれさせない」という行動指針を先に知っておいた方が話が早い。なぜならば、「つかれさせられる」という被害者の立場で考えてしまうと「つかれ」の根本的な性質が理解できなくなってしまうからです。 つかれさせるかもしれない立場で考えた方が、よりくっきりと「つかれ」の輪郭が見えてくる。そういうところがあります。したがって、人をつかれさせてしまう行動について要点を踏まえながら、それを避ける方法について詳しく言及していきます。


 つかれさせる言動の原因となる

アヤフヤで不安定な自我を補強するために、他人のリアクション待ちをする

態度は、それをやっている本人がほっとくと基本的にどんどん悪化、肥大化します。

 アヤフヤな自我を補強する他人のリアクションは全部「おせじ(相手に関心がなく場面を早く終わらせたいので結論コマンドを連打しているだけ)」であり、一応の社交的な反応に過ぎず実質的な意味や価値を伴っていないものなので、心底満足することはできないからです。若いうちは欠落がいい感じに見えたりもしますが、ある程度の年齢で欠落をカバーしようと必死になりすぎているとヤベー人になってしまいます。
 こうなってしまっている人を助けたくなるかもしれませんが、助かりません。助かりませんというか、他人の手で助けてあげることは不可能です。

 なぜならば、そもそも苦しんでいる原因が

自分の心と自分自身で向き合ってけりをつけるべき問題に向き合わず、他人にその場しのぎの慰めをかけてもらうとこで目をそらし続けてきた

からです。

 こうなってしまっている人は本人的には被害者意識がありますから一見気の毒に見えますし、本人も助けてもらうしかないと思い込んでいるので、他人の同情や助けたい気持ちを動員する(無意識の)技術に非常に長けている部分があります。
 しかしながら、助ければ助けるほどいっそう本人は助からなくなってしまうので、気の毒な気持ちをぐっと抑えて放っておきましょう。
「つかれさす」態度がある一定の水準を超えて激しくなったところで本当に誰からも相手にしてもらえない透明人間のような人格が完成してしまうだけなので、それが遅いか早いかの違いです。遅いか早いかの違いなら、早いほう圧倒的にマシです。なぜならば、完全に透明人間になってしまった人は、もう誰も関わってくれないし、他人からのフィードバックが得られずに一生そのままで生きていくしかなくなる見込みが高いからです。

 「つかれさす」人の行動原理についてある程度理解できたのではないかと思います。じゃあ具体的にどうやって「つかれさす」フィールドを避けていくのか。ここにはひとつ大きなキーワードがありますから覚えてください。それは

「序列化」


です。

 序列化とは、この場合は「ある集団を維持するために用いられる価値基準によって、優等と劣等を区別し順番をつける」作用のことを指しています。
 例えば受験でしたら偏差値によって人間は序列化されますし、婚活市場でしたら外見や収入や年齢で序列化されるケースが多いでしょう。このような序列化は(嫌な)普遍性をもっていますから理解しやすいのですが、もっと狭い範囲の人間関係にもこの序列化のものさしが山ほど出てきます。しかも、狭い範囲の人間関係において用いられる序列化のものさしの基準は、はっきりとした理由もなしに、その場のムードや雰囲気で決まります。
 
 例えばですけど、あるラグビー部内では「酒に強い方がオシャレ」という価値観がある一方で、スノッブな文学サークルの内部では「酒を飲まない方がオシャレ」という価値観が幅をきかせているケースがあります。

 どちらの序列化にも全く根拠がなく道理もないのですが、人間が集団になるとなにかしらの「好ましいとされる同質性」が強調されることになります。
 なぜならば、序列化しないとしないで集団における人物の立ち位置なんかが「パッと」理解できないからです。いや、立ち位置がパッと理解できる必要って実はそんなにないんですけど、群れ同士で争いが頻発している場合は即座に誰が「エレーのか」「つえーのか」がわかんないとやっぱり不便ですからそうなるのだと思います。ここまでは人間の生得的な認知特性ですから、なんとか勘弁してあげてください。問題の本丸は、さらにここから一歩進んだところにあります。それは、

<集団における「序列化」の仕組みを、自分のアヤフヤで不安定な自我を補強するために用いる人がいる>

ということです。詳しく説明しなくても、なんとなく理解できるという人もいらっしゃるかもしれません。それは、あるからです。しかも、日常のそこかしこに。

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