風に揺られ消えた灯にとって、運命とは何だったのだろうか。
全てが運命ならば、生まれてすぐ兵器に吹き飛ばされた子の運命とは何なのだろうか。
使命とはあるのだろうか。今日はそんなお話。
「あきらめてしまわなければタイミングってあるものだな」と最近考える。
私は(いやもしかしたら社会に生きる大勢が)とにかく焦り動きたがる。そして極端な後悔をする。
「あの時あれをしとけば」なんて思って、「あの時」を実際に生きていた時、「あれ」について思いつくこともできなかったし、「あれ」自体かなり難しい事柄だったりする。
具体的には「大学時代から海外でしか就職しないということを目標に全力で活動しとけばよかった」と私は思ったりするが、大学時代にそういう計画を一瞬も考えなかった、考えるきっかけや情報も、動機も無かったのだから、実は後悔しようがない。
YOSHIKIの名言に「未来で過去は変えられる」というのがあるが、私の場合は「現在の怨念を過去に投げて無視される」だろうか。そんなに大げさなものじゃないけど。
だけど結局、焦って階段飛ばしして大怪我しても仕方がない。球が飛んできて打つのを何回か見送ったとしても、次はバッド(かもしれないししょぼい棒しか持ってないかもしれない)を振ってかすりはして、次もかすって、その次もかすって、だけどやがて大当たり!!というときがきて、それが「ベストタイミング」なのかもしれない。
就職する度に超速で成果を出して、転職活動を遊び感覚でやって、内定を得ても嬉しい気持ちが麻痺している、なんて人ももしかしたら世の中にはいるのかもしれない。でも不器用な人間や、やりたいことや自分に合うことすらなかなか見つからなかった人間にとっては、「ここ応募してみよう!」というところが見つかるだけでも、大きな前進かつベストタイミングかもしれないのだ。しかも歩幅も向いている方角も全く違う無数の人同士が繋がり、縁が生まれるかもしれないと思うと、当たり前のことを書いているようで、不思議な気はしてくる。人それぞれ、という当たり前の妙。
冒頭に掲げた文章に戻る。生があまりに短く、もしくは不十分な形で終えられてしまった生命は、世界に、いや国内にも無数にあった。今にも消えようとする光もあるだろう。全てが縁で繋がっているか、もしくは運命の膜に包まれているなら、そもそも縁とは、運命とは何なのか、どれくらいの重さを持つ価値なのかというギリギリの問い直しが始まるだろう。
そこにこそ、見えない扉から宗教が顔を出す。
決して全人類が平等に幸福に満たされるから、神が問われる訳ではないのだ。
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