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”かわいい”とか言ってはいけない気がする


かわいいー!感情が高まると何に対しても、そう思ってしまう時がある。"かわいい"は色んな意味を包括する言葉だ。大人かわいい、シンプルかわいい、派手かわいい等、かわいいの中にも種類があって系統分けもできる。病みかわいい、キモかわいいなどネガティブな言葉の後に付いても何だかポジティブなイメージに変わってしまうから不思議だ。

要するに”かわいい”と言うのはとても便利な言葉で、私は自分の中に湧いてくる複雑な感情もひとまとめに”かわいい”の4文字で吐き出してしまえば、自分が相手に抱く好意が伝わるような気がしてしまう。

私は女の子の顔が好きだ。特に自分が ”かわいい”と思う女の子の顔が。ルッキズムなんだろうなと思う。

ルッキズム(英: Lookism)とは、身体的に魅力的でないと考えられる人々に対する差別的取り扱いのことをさす。

身体的魅力はよいものと関連づけられる。他方、身体的に魅力がないことは悪いものと結びつけられる。多くの人々が、身体的特徴で他者を判断する。その人がどのような身体的特徴を持っているかによって、人々の対応の仕方は変わるのである。


中学生位から、かわいい子を崇め奉る精神が自分の中に出来たと思う。自分が容姿を貶められた経験からかもしれないが、見た目に対して強いこだわりを自然と持つようになっていた。ただ、見た目で友達を選ぶようなことはしていない。単にかわいい子の容姿を褒めたり、目の保養にしていた。

インスタが登場してから、沢山の”かわいい”子を見ることが出来るようになった。”かわいい”子を見て”かわいい”とコメントを送るのは日本では何気なく日々行われている。自分としては”かわいい”はポジティブな言葉だから幾らでも使って良いと思っていた。



ある日、”かわいい”って誰にでも言ってんじゃねえよ。と “かわいい”子が発信していた。私に向けてではなく、全体に向けてだ。誰にでも言ってる言葉をもらっても、ちっとも嬉しくないと言うことだった。

”かわいい”が嬉しくないのは、見た目が良いと”かわいい”は聞き飽きているからなのか、最初は頭が?だった。他の人に”かわいい”を言わず、その人だけに”かわいい”を使ったとしても、その”かわいい”と言う四文字の言葉は変わらない気がした。しかし、確かに誰にでも”かわいい”を言い過ぎているなと自分を省みる機会になった。




最近、【ブスの自信の持ち方】と言う本を読んで成る程なと思ったことは、美人とかカッコいいとか容姿の面で優れているとされる人は、記号として早く遠くまで届きやすいそうだ。身近にいる人だと話したり、コミュニケーションを取ってその人のことを詳しく知る機会はあるが、遠くにいる人だと顔で人を判断する可能性がある。その時に、美人とかカッコいいとされる人はビジュアルの面で力を発揮すると言うことだった。

美人とか、カッコいいとか”かわいい”見た目を売りにしているなら、そこを褒めてもいいのかもしれない。でもそれも差別か。褒め言葉でも差別になる可能性がある。そう言った容姿を褒める言葉にはうんざりしていたり、見た目だけではなく、もっと自分の内面を見て欲しいと思っている人もいるだろう。




私自身は自分の外見をどうこう言われたくない。それなのに他人に対して気軽に”かわいい”とか投げかけるのは何か間違っているのかもしれない。それはその人に対して勝手にジャッジしているのではないかと最近は考えたりもする。見た目を”かわいい”とか言うのはやめた方がいい、失礼だとされる時代も来るかもしれない。

そんなことを考えながら、インスタには「今年もかわいい ❤︎ 絵が描けるように精進します。」と書いてしまった。自分が思う”かわいい”を絵を通して他人に伝えたい気持ちがある。それ故、”かわいい”と感じる子を見つけると猛烈に描きたい衝動が湧いて描く。”かわいい”と言うコメントを添えて。まだ”かわいい”以外にしっくり来る言葉も見つからず、結局それを使っている。

使う言葉が”かわいい”で良いのか考えながら、複雑な感情も”かわいい”以外の言葉でも伝えられるようになりたい。


ELIE



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