外山雄三を讃えて⑧ベートーヴェン交響曲全集
四半世紀くらい前から、指揮者・作曲家の外山雄三のファンでした。いま私は45歳で、20歳くらいから追いかけています。
生ではなかなか聴けない昨今ですが、なんと、昨年(2020年)、大量の外山雄三のCDが出たのです。ベートーヴェンの交響曲全集と、チャイコフスキーの交響曲ほか。こんなに、いわゆる「名曲」の外山雄三のレコード・CDが出るのは、空前のことです。
だいぶ前、守口フィラデルフィア管弦楽団研究会さんというブログのかたが、外山雄三のベートーヴェン交響曲全集を出すべきだ、と書いておられましたが、実現しましたね。
そのうち、チャイコフスキー「悲愴」とムソルグスキー「はげ山の一夜」については購入し、「外山雄三を讃えて⑦」で感想を書きました。リンクがはれなくてすみません。
今回は、ベートーヴェン交響曲全集を入手しました。この経済的に困っているときに、どうしてそんなお金が工面できたのか、を書いてもなかなかおもしろい話なのですが、それは割愛しますね。とにかく、買えたのです。
「ベートーヴェン交響曲全集」というものを買うこと自体が、人生で初めてのことです。
「悲愴」のときと同じく、「1回限りの生演奏」のつもりで、聴きました。6枚のCDに入っており、順に、1日1枚、6日かけて、じっくり聴きました。「1,4番」「2,8番」「3番」「5,7番」「6番」「9番」という順序でした。オーケストラは、大阪交響楽団。
感想を書きますね。
外山雄三は新しい楽譜(とはいえこれも四半世紀はたつ)を用い、また、繰り返しは、しばしば略しています。古楽器演奏の影響は、皆無と言っていいと思います(私が学生時代は、古楽大流行の時代で、出るベートーヴェン交響曲全集は、すべて古楽器ではないか、という時代がありました。いまや、モダン楽器で、こんな、ピリオド奏法をまったく考慮しない全集が出るというのは、いい時代です。別にピリオド奏法を憎んでいるわけではありません。外山雄三のベートーヴェン交響曲全集が出るタイミングというものがあった、ということです)。
まず、はじめに「第1番」を聴いたせいもあると思いますが、「わあ、なんという楽譜通り!」と感激しました。外山雄三を「印象批評」してはならないのです。遅めのインテンポによる圧倒的な演奏です。「第4番」は、学生時代に、東フィルを指揮した、ラジオからとったカセットテープを持っていましたが、それと比較できるだけの記憶はありませんでした。これも同様、遅めのインテンポによる演奏です。
2日目。第2番と第8番を聴きました。2番もすごかったですが、第8番が驚きの演奏です。オーケストラの演奏できるテンポを取っているのでしょうが、極めて遅く、音楽がどれだけ盛り上がっても、外山雄三がテンポを上げることはありません。オーケストラに、きちんきちんと演奏するように、しっかり訓練しているようすがうかがわれます。
3日目。第3番「英雄」を聴きました。この曲に限りませんが、英雄では、第1楽章の慣習的なトランペット追加はしていません。だんだんわかってまいりましたが、外山雄三は、かつては、曲の最後で、リタルダンド(遅くする)と書いていないところでは、いっさいリットしませんでした。生で聴いたショスタコーヴィチの5番しかり(「外山雄三を讃えて④」をご参照ください。リンクがはれなくて申し訳ございません)、1990年録音の仙台フィルのモーツァルトの「ジュピター」の最後しかり。しかし、このベートーヴェン交響曲全集では、楽章の終わり、曲の終わりに、音楽的に自然な、ポコ・リットがあります。そして、たとえば第4楽章のフェルマータののちオーボエのソロに行くところで、フェルマータの前に、大きくリタルダンドしました。そして、そののちのオーボエソロに、「すきま」はありません。こういうとき、外山雄三は、いっさいすきまをつくりません。生で聴いたバッハ=ストコフスキーの「トッカータとフーガ」の最初のほうにも、ストコフスキーがすきまを書いていないところで、外山雄三はすきまを作りませんでした(日フィル。この日の感想は、まだnoteに書いていないです)。あるいは先述のモーツァルトのジュピターの第1楽章しかり。しかし、この英雄のオーボエのソロにむけては、大きくあいだをあけて、オーボエに息を取らせました。なかなか音楽的です。もしかして、20年前だったら、外山雄三は、「鬼のような楽譜通り」だったの?そこはわかりません。外山雄三も歳をとったのでしょうか?それとも、私が外山雄三の真の姿を知らない?
4日目。第5番と第7番を聴きました。外山雄三の「運命」は、もう四半世紀以上前くらいに、テレビで観て以来(おそらくN響)、ずっと、耳から手が出るくらいに聴きたかったものです。第1楽章のインテンポぶり!じつは、私は、「運命」は指揮しています。第1楽章はお客さんの前で、練習指揮は全楽章。そのことは「「運命」の指揮」に書いています。リンクがはれなくて申し訳ございません。第1楽章を、インテンポで演奏すること(させること)は、とても難しいのです。私はできなかった。もう1回、チャンスがあるなら、今度は、もう外山雄三のようにではなく、ストコフスキーのように、オケに自然にリットさせようと思っていました(ワンチャンスでしたので、もう機会はありませんでしたが)。じつは、この外山雄三の演奏をCDで聴いてから、CDでなら、もっと徹底した演奏を聴いたことがあることを思い出しました。ヘルベルト・ケーゲル指揮ドレスデン・フィルです。完全なインテンポで、8分休符も、ぴったりの長さだけ休み、第2楽章のppから急にffに行くところも、いっさいクレシェンドしませんでした。それに比べると、外山雄三でも、まだ甘いかな、と思うほどです。私、期待しすぎですかね(笑)。とにかく、外山雄三の理想とする「運命」は、よーくわかりました。第3楽章から第4楽章に行くときも、インテンポで行きました。しかし、いまやそういう演奏は、アバドでもあります。第4楽章と第3楽章のテンポの関係も、正しい。でも、そういう演奏は、ノリントンでもあります。外山雄三の演奏は、珍しくなくなってしまっているのです。あえて言うと、これだけ遅いテンポを保ってそれをやる指揮者はほかにいないかも、ということですね。
第7番も、遅めのインテンポ演奏ですが、だんだんわかってきました。外山雄三のアプローチは、曲の弱点を丸出しにすること。多くの指揮者・オーケストラが、たとえばこのベートーヴェン7番であれば、適切な「演出」をして、曲の弱点をお客さんに知られないようにしています。外山雄三は、そういう演出をしないので(曲を信頼しているということでもある)、曲の弱点がもろだしになっている。第4楽章には、楽想のあいだのパウゼを長めにする外山雄三の「遊び」がありますが、これは私が生で聴いていたころからあるものです。「外山雄三を讃えて③」をご参照いただければ、と思います。ブラームスの2番にもあった「タメ」です。
5日目は、第6番「田園」です。さすが外山雄三!この曲、いかに多くの指揮者・オーケストラが、「雰囲気」を作るための「演出」をしているか、がよくわかる「演出のない」演奏でした。この「田園」という曲の真の姿を聴いた気分でした。
最終日が、「第九」だったわけです。あれ?第1楽章の再現部で、ティンパニの刻みに、クレシェンドと書いてないのに、クレシェンドしている…。第4楽章の冒頭でも、ベートーヴェンはテンポを動かすなと書いているはずなのに、大きくテンポを動かして、表情を作っている…。アラ・マルチアの直前、ほとんど間をあけなかったのは外山雄三らしいけれども…。ラストのプレストも、遅めのインテンポを貫きながら、コーダはちょっと速い…。どうもふしぎな全集です。
やっぱり、ちょっと期待をしすぎたのか、どれだけ生に近い環境で聴こうとしても、ほんとうの生ではないので、とくにCDですから、他のいろいろなCDと対等に比較してしまう…。前から思っているのですが、ストコフスキーは世界的天才だと思います。しかし、外山雄三は、各国にひとりはいる才能ではないかと。生で聴いてみたかったなあ。ベートーヴェンの交響曲は、いずれも、外山雄三の生は聴いたことがないです。
しかし、総合的にみて、満足のいく全集でした。なにしろ、「運命」だけでも、どれだけ聴きたかったことか!それが、「ベートーヴェン交響曲全集」!外山雄三の長生きに感謝するしかない。大阪交響楽団にも、キングレコードにも感謝。いい買い物でした。引き続き、チャイコフスキーの4番ほか、5番ほかも買います。なにしろ外山雄三にはアンチがいますので、そのうち廃盤になって、買えなくなってしまう。
でも、外山雄三が、なぜ、お客さんからも支持があまりないのかもなんとなくわかりましたよ。第7番の感想のところにも書きましたが、こういう外山雄三のアプローチは、曲の弱点もあらわにしてしまうからです。そこが外山雄三の「楽譜通り」の演奏の魅力でもあるのですが。外山雄三は、「プロフェッショナル」なのです。
そういう感想を抱いた、外山雄三、大阪交響楽団によるベートーヴェン交響曲全集でした。ありがとうございました!
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