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「主の祈り」のとてつもないあつかましさ

富田正樹牧師がツイッターで「『主の祈り』には感謝の言葉がない」と書いておられましたが、おっしゃる通りです。私がこの2年以上の、休職と無職の期間、ひたすら貧乏になりつつ生活に困りながら聖書を読んで強烈に感じている2点は「聖書は徹底的に貧乏な人に向けて書かれている」ということと「聖書の最も言いたいことは『もっと神にも人にもあつかましくせよ』である」ということです。今回はその観点から「主の祈り」を見てみましょう。

「主の祈り」は多くの教会の毎週の礼拝で唱えられていると思われる祈りで、新約聖書マタイによる福音書6章9節以下で主イエスが「こう祈りなさい」と教えられた祈りだから「主の祈り」と言います。どう祈れと書いてあるかと言いますと、とにかく後半がとてつもなくあつかましいのです。「今日の食べ物をください」「罪をゆるしてください」「試みにあわせないでください」「悪から救い出してください」と、際限なくあつかましくなっていきます。通常の「主の祈り」と、聖書の原文を比べてみましょう。聖書は最新の日本語訳である『聖書協会共同訳』を参照し、一般の「主の祈り」は最もこなれた日本語訳である聖公会の現代語訳を参照します。まず「国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン」は原文にはありません。そんな「殊勝な」言葉はもともとないのです。「私たちを試みに遭わせず 悪からお救いください」という「とてつもないあつかましさ」で終わっています。「神様ありがとうございます」がないだけではないのです。

次に、「私たちの負い目をお赦しください 私たちも自分に負い目のある人を 赦しましたように」と聖書には書いてあります。注のついたバージョンではこの最後の箇所に注があり「直訳『赦しましたから』」と書いてあります。つまり直訳だと「ねえねえ、ぼくたちも人をゆるしたんだから、ぼくたちもゆるしてよう」と言っていることになり、「あつかましさの極み」となります。原文のあまりのあつかましさに、聖書の翻訳者まで神様に「忖度」しています。まして原文は「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」(通常の「主の祈り」)などという「殊勝な」ものではありません。だいたい原文は「負い目」という露骨な言葉であって「罪」などという抽象的な言葉ではないですし。

また「私たちに日ごとの糧を今日お与えください」という祈りは「今日の食べ物はあるか、明日のぶんはまったくわからない」という極限の貧しさの中にある人向けの祈りであるわけです。聖書では直後に出る「明日のことを思い煩ってはならない」(34節)という有名な言葉もこの文脈上であり、極めて貧しい人向けの言葉です。「ローズンゲン」という「その日の聖書の言葉が書いてある(らしい。私は見たことがないのでよく知りませんが)」ものを「日ごとの糧」と言ったりしますが、そんなのんきなものではなく、もっとずっと切実な祈りです。本来は。

それから、土居健郎がまさしく指摘している通り「試練を乗り越えられますように」ではなく「そもそも試練に遭わせないでください」と祈っているというとてつもないあつかましさ!そして先述の通り「悪からお救いください」で終わりです。いかがでしょうか。イエスが本来教えた「主の祈り」とは、そのようにのんきでも殊勝でもなく、かくも「切実で」「あつかましい」ものなのです。恥も外聞も謙虚さもないです。われわれがこれを毎週、教会で「棒読み」しているのをイエスさまが見たらどう思うかな。

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