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「あつかましさ」は無自覚的

先日、友人の出演するピアノ発表会を聴きに行って来ました。そのピアノの先生はクリスチャンで、その発表会は、その先生の通う教会の礼拝堂を会場として行われました。初めて入る教会でしたが、なかなか立派な礼拝堂でした。そのピアノの先生は「開演前に、この教会の牧師先生からお話があります」と言いました。牧師さんが現れ、以下のような話をされました。

「先月、この会堂は、震度5の地震で倒壊する恐れがあることが分かりました。以来、私たちはこの礼拝堂で礼拝をしていません。本日は特別に、このピアノ発表会のために礼拝堂を貸し出すことにしました」。そして、壁が倒れるとすればどの方向にか、あるいは、万一のときの逃げ方の話などをされました。2018年にブロック塀が倒れて女の子が亡くなった話なども出ました。その牧師さんの話は5分ほど続きました。その話が終わって、すっかり深刻な空気になってしまったところで、ピアノの先生が言いました。

「私はこの教会の信者です。必ず神様が守ってくださると信じています。みんなで祈りましょう」。そう言って、みんなで2、3秒、黙祷しました。そして発表会は開演しました。

個人演奏の部があり、連弾の部がありました。私の友人も演奏しました。先生の演奏もありました。最後に皆さんで記念写真を撮って、発表会はお開きとなり、流れ解散となりました。そこで私はあることに気づきました。「誰も神様にお礼を言っていない!」

確かに神様は私たちの願いを聞き入れ、私たちを地震による建物の倒壊から守ってくださいました。しかし、終わったあとに誰も「神様ありがとうございました」とは言いませんでした。おそらく皆さん、そのピアノの先生本人も含めて、開演前にそんなお祈りがあったことはお忘れでしょう。それで人は大地震などがあると「神はどこにいるのか」と言ったりします。神様はどう思っておられるのでしょうか。

このように「あつかましさ」というものはしばしば無自覚的であるという気がいたします。「あの人、迷惑だけど、自分でそのことに気づいていないよな」とお思いになることは多くの人の経験するところではないかと思いますがいかがでしょうか。奥田知志牧師がよく「困ったときは『助けて』と言いましょう!」と言っていますが、実際には私たちは「無自覚的に人にあつかましくしている」ことのほうが多いのではないでしょうか。

10人の「規定の病」(もしくは「ツァラアト」「重い皮膚病」「らい病」)の人がイエスに助けを求める場面が聖書に出てきます(新約聖書ルカによる福音書17章11節以下)。イエスは「行って、祭司たちに体を見せなさい」と言います。10人は行く途中で癒やされました。しかし、お礼を言いに戻って来た人はそのうち1人だけでした。では残り9人はどうなったのか。バチが当たって、また規定の病に戻ってしまったのか。そういう話ではありません。神様って、人間の願いはその程度のものだとよくご存知なのではないでしょうか。

かくいう私も、その日、会堂の倒壊から守っていただいたことを神様にお礼を申し上げてはおりません。それでいいと思っています。神様あつかましくてごめんね。

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