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武久源造の思い出

 学生時代、あるとき、なんとなく四谷を歩いていました。なんの用で四谷を歩いていたのか思い出せません。めったに四谷を歩く用事はありませんでした。

 その日、なんとなくイグナチオ教会の前を通り、チラシに目が行きました。武久源造のオルガンの夕べと書いてあります。よく見ると、その日でした!もうすぐ始まる!しかも入場無料!これは出会いですから、行くことにいたしました。夕方のミサのあとのようでした。少し始まるまで時間があったので、近くのサンパウロで時間をつぶして、行きました。

 こうして、2003年2月28日、イグナチオ教会で、武久源造のオルガン・リサイタルを聴くことができてしまいました。

 武久源造さんを聴いたのはそのときだけです。目が不自由らしく、付き添いの人にひかれて、つえを持っての登場でした。オルガンの曲は覚えられませんので(教会に通ってそれなりの年月がたつのに、オルガンに強くなれません)、そのときのチラシを参考に書くだけですが、シャイデマン、トゥンダー、ブクステフーデ、バッハの作品を聴いたようです。印象に残っているのは、ヴィヴァルディの「春」を武久源造がオルガンに編曲したものを聴いたことです。ヴィヴァルディの協奏曲をバッハがオルガンに編曲していることからして、そのような試みはあってよいということでしょう。調も移調してありました。弦のきざみのところは、トリルにしてありました。

 最後に、「お約束」と思われる、オルガニストを奏楽者としての、会衆一同での「主よ、人の望みの喜びよ」をみんなで歌うのがありました。この「主よ、人の望みの喜びよ」って、非常に悪い訳で、なにしろ意味がわかりませんでしょ?私の教派では、「2編」と言われる讃美歌集に、「こころに主イエスを」という歌詞で載っていますが、そのカトリックの歌詞のほうがずっとよく、その日、配られた歌詞を、しばらく保管していた記憶があります(なくしましたけれども)。そのとき、外国人の神父様が指揮をなさっていましたが、どうしてもあれは指揮とは言えない。テンポに大きく遅れているし。しかし、「オルガンにあわせて適当に舞っていた」わけでもなく、いっしょうけんめい、会衆を導こうとしているらしいことはわかりました。

 それで、私の唯一の「武久源造の体験」は終わりました。ここのオルガンは、ほかにもミサで聴いていると思いますが、このような「オルガン・リサイタル」で聴いたのはこのときだけだと思います。以上です。

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