私はキリストをバカにしている
以前、「イエスは空気が読めない。マタイは空気を読む」という記事を書いたことがあります。たいした記事とは思えず、リンクははりませんが、これを書こうとしていたときに、あるクリスチャンに「こういう記事をいまから書こうとしている」と言ったら「イエスさまをバカにしちゃダメですよ」とくぎをさされました。その人はかなりなんというか保守的な信仰の人であったので、私のこの題を聞いただけで、私がイエス・キリストをバカにするのではないかと思ってくぎをさしたのでしょう。べつにそういう記事ではなかったのですが、それはともかく、私はキリストをバカにしているかといえば、そうかもしれません。
イエス・キリストは「まことの神で、まことの人であった」と言われます。この「まことの人」というところに注目してみます。彼はまことの人であった。人間は普通、バカにされます。ほとんどすべての人は誰かからバカにされます。「ほとんどすべて」ではなく「すべて」と言っていいでしょうね。そしてイエスが「まことの人」であるなら、彼もまたバカにされたのです。実際に、イエスがバカにされるシーンは聖書に出てきます。十字架にかけられる直前、兵士から「ユダヤ人の王、万歳」と言われてバカにされます。さらに十字架にかかって、通りかかる人から「十字架から降りて自分を救ってみろ」と言われてバカにされています。そのキリストをバカにした人たちと私に、何の違いがあるでしょう。私もキリストをバカにしているのです。
イエスは言いました。「よく言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆(ぼうとく)の言葉も、すべて赦される」(マルコによる福音書3章28節)。「バカにする(冒瀆する)」という行為は無自覚的に起きますので、イエスさまにゆるしてもらわねばならないのです。じつは、いまの聖書の言葉のあとには、「しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠の罪に定められる」という言葉が続きます。この「聖霊に対する冒瀆はゆるされない」というほうを強調する人もいるのですが、私にはこちらは強調点ではない気がしています。「あらゆる冒瀆がゆるされる」という断言のほうが強調点だろうと思います。この記事のタイトルも「私はキリストをバカにしている」とするか「私たちはキリストをバカにしている」とするかで、少し迷ったのです。ただ、皆さんも含めて「私たち」とするのは申し訳ないような気がして、「私」とした次第です。「バカにされる」とか「バカにする」というのは、人間として自然な状態です。そして、(くどくてすみませんが)キリストは「まことの人」でもありました。私はキリストをバカにしています。そして、それはゆるされるのです。これは私とイエス・キリストとの信頼関係です。
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