「キリスト教主義学校」?
「キリスト」で予測変換すると「教主義学校」と出ます。「キリスト教主義学校」という言いかたは一般的であるようです。「ミッションスクール」という言いかたもありますが、その言葉は「信者を増やすというミッションを持った学校」という意味ですので、現代日本に、厳密な意味でのミッションスクールはないと言ってよいでしょう。それでよく「キリスト教学校」などという言いかたをしますが、それでもよく思います。キリスト教をつきつめていって「主義」になるのだろうか、また、「学校」や「病院」になるのだろうかと。
私は16年前に、あるキリスト教学校に教員として勤めました。クリスチャンびいきのクリスチャン校長がいて、その校長の「ひいき」で内定をもらったようなものです。その校長は、悪い人ではありませんでしたが、「クリスチャンだ」というだけで信用するというちょっとした悪癖がありました。また、最近、キリスト教の宣教(布教)目的ならば無償であるというウェブサイト制作者とも知り合いました。その心意気はよくわかるのですが、あらためて「キリスト教ってなんなんだろうな」と思ってしまいます。
私もキリスト教を広めたいですよ。その意味では「下心あり」だと言えると思います。しかし、「キリスト教の信者が増えればいいか」といえばそれは違いますね。ただ、神を信じてゆだねて生きる安らぎのようなものから、信者どうしの人脈の幅広さという面まで含めて、宗教を信じることのよさを知ってもらいたいという気持ちがあるということです。ちゃんとデメリットについても言っておきましょう。あぶない宗教はあるものです。そして「まともな」宗教と「あぶない」宗教は区別がつきません。宗教ってもともとあぶないものですからね。
しかし、宗教ってなんでしょうか。神社などに、寄付をした人の名前が彫り付けてあります。金額の高い順に彫り付けてあります。どの宗教でも同じようなものでしょう。「羊どろぼう」という言葉も聞いたことがあります。信者を他の教会に取られてしまうこと。ある人の父親で、熱心な仏教徒だった人が、劇的にキリスト教徒になった話をその息子から聞いたことがあります。しかし、それは、向いている方向が少し変わっただけで、「熱心な宗教の信者」であることには変わらないということが言えます。だいたい少なくとも日本で「熱心な仏教徒」って珍しいし。
洗礼を受けてキリスト教の信者になった人で、ろくでもない人がいるばかりか、大教会の牧師でもろくでもないのがいます。「日本のキリスト教人口を10%に!」と言っている人がいましたが、それなら、あなたの嫌いなあの人もあの人もクリスチャンになるんだよと言いたかったです。なんでそんなに信者獲得に熱心になるのだろう?少なくとも、キリスト教をつきつめて「主義」だの「学校」だのにはならないのではないか。宗教って生き方そのものである気がします。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?