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あんまりあつかましくしていると独りぼっちになっちゃうよ

私には司法試験に合格した友達、医師国家試験に合格した友人はたくさんいます。とくに司法試験合格者は多いです。したがって弁護士の友人は多いはずなのですが、現在、連絡が取れる仲間はたった2人です。なぜなら、若くしてこれらの試験にパスした仲間は、大概、とんでもない田舎へ飛ぶからです。そして当時はメールアドレスや携帯電話のない時代。住所と電話番号が変わってしまったら、よほど仲良くない限りは、そこで連絡が途絶えてしまうのでした。

ふたりとも18歳で大学入学時からの友人です。ひとりはある地方都市に住んでいます。こちらの友人は、数年前に仕事がつらいという相談をしたら、いかに私が当時の仕事を辞めるのがおろかかという話をしてきました。私が「しがみついてもやる」と言うと「しがみつく感じというより腰かける感じ」と言いました。完全に私を馬鹿にしていました。そして、裁判官から弁護士になる馬鹿がいる、と笑っていました。裁判官が安定した仕事の割に、弁護士はフリーランスで収入が安定しないからだそうです。それ以来、彼には頼らないようになりました。彼から見たら現在の私の生きかたは「おろか」以外の何物でもあるまい。

東京に住むもうひとりのほうが理解があると思っていました。しかし、最近、「忙しい」と言って、なかなか電話に出てくれません。先日、電話をしたときは「ごめん。オレいま、体調が悪くてさ。点滴を打っていてさ。しかもあしたは九州に出張で、点滴出張みたいな」。「点滴出張」なんてあるのか?そして、そのあとかけても出ないし、かけ直してもくれません。18歳からの友情が途切れました。私のあつかましさに嫌気がさしたのでしょう。

このように、私は、このあまりのあつかましさで、長年の友達を失うことがときどきあります。これも同じ大学の仲間で、大学院は神学部に進んで牧師になり、神学で博士になった大学の先生。彼女もいっさい電話に出てくれなくなって久しいです。「そういう友達は東大に多い」のかどうかは知りません。しかし、ときどき私は人にあつかましくしすぎて、友達を失います。

長いこと友人だと思っていた人が、じつは敵であった、という経験もよくします。それは職場にもいましたし、牧師にもいました。「偽兄弟(にせきょうだい)たちからの難」(新約聖書コリントの信徒への手紙二11章26節)とパウロが言っている「難」は、「兄弟(仲間)だと思っていたのにニセモノだった」という難でしょう。「男は敷居を跨げば七人の敵あり!」と結婚した翌日に父に厳しく言われたものです。その敵のうちのふたりが父でありまた母であったわけですが、このように来ると「きみはそんなにしつこくしているとしまいには独りぼっちになるよ」と言われたりします。自分でも思います。しかし、果たしてそうだろうか。

私にはたくさんの友達がいます。敵だと思っていた人が味方だった、という経験もしています。結婚披露宴以来16年ぶりにつながった古い友人。2年前に知り合ったツイッターでの友人。数年前にリアルの教会の祈祷会で知り合った友人が、思いがけない私の理解者であったという経験もしています。20年以上前に知り合ったオランダ人の友人が非常な理解者でありました。先日「暮らしサポート」という福祉で出会った支援員のかたがまた「当たり」であったようで、しきりに「あなたは独りぼっちではない」と強調してくださいました。

私は人生をかけて壮大な実験をしているところです。果たしてこの「あつかましさセオリー」の通りに生きたら、いずれみんなから相手にされなくなって、独りぼっちになっていくのか。それとも、助けてくれる親切な友人は現れ続けるのか。私は後者にかけて生きて行きたいです。「渡る世間に鬼はなし」と信じて歩みたいです。

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