ノーと言えるクリスチャン

するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。(中略)
ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(マタイ26:33-35、69-75、『聖書 新共同訳』)


 「主よ、み手もて」という有名な讃美歌がありますが、この歌に、こういうフレーズが出てきます。「いかに暗く、険しくとも、みむねならば、われいとわじ」。これって、イエスを裏切る直前のペトロの発言にそっくりであることに気づいたことはありますか?
 イエスは言いました。「今晩、にわとりが鳴く前に、あなたはわたしのことを、3回、知らないというであろう」。ペトロは答えました。「たとえあなたとご一緒に死ななくてはならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」。他の弟子も、みんなそう言ったそうです。「いかに暗く、険しくとも、みむねならば、われいとわじ」。ね、そっくりでしょ?
 で、先ほど読んでいただいた聖書の箇所の通り、ペトロはほんとうにイエスを3回知らないと言いました。これ、ペトロのことをひとごとだと思わないでくださいね。これは、おのれ自身の姿ですよ。


 この物語は、人間の弱さというものを、徹底的に描いてあますところのない物語です。これが実際のわたしたちの姿なのです。さっきみたいな讃美歌を歌っていても、いざとなったら、イエスを裏切るのです。しかし話はここで終わりではなく、イエスは結局、十字架にかかり、三日目に復活して、ペトロをゆるし、わたしたち全人類をゆるしてくださいました!ペトロは、全人類の弱さ代表のようにイエスを裏切り、そして罪ゆるされて生きる全人類の代表なのです。


 この物語が、書き残されている時点で、ペトロはゆるされている、ということはお気づきでしょうか?もしも、このペトロが3回知らないと言った話が、ゆるされない話であるなら、おそらくこの話はタブーとなり、書き残されることもなく、永遠の闇に葬られたでしょう。この話が書き残され、聖書に載っている時点で、ペトロはゆるされており、この話は壮大な「ゆるし」の物語であり、2020年現在にいたるまで人々をゆるし続けている物語なのです。


 ペトロは、「お前もあいつの仲間か?」ときかれ、とっさに「ノー」と言いました。3回も。わたしたちも、「ノーと言えるクリスチャン」でありたいものです。
 「あなたはクリスチャンですか?」「ノー!」
 「毎日、聖書を読んでいますか?」「ノー!」
 「いつもよろこんでいますか?絶えず祈ってますか?どんなことにも感謝してますか?」「ノー!」
「互いに愛し合っていますか?」「ノー!」
「あなたは神を信じますか?」「ノー!」(大笑)


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