自分の量る秤で量られる
私の知っているある牧師さんが、説教のなかで、よく「ブーメラン」という言葉を使います。自分が言った言葉が、そのまま自分に向けて「帰ってくる」現象を言っています。その牧師さんは、言ったら言いっぱなしではなく、自分で言った言葉が自分に帰ってくるのをよく自覚しておられるのですね。この現象を聖書の言葉で「自分の量る秤(はかり)で量られる」(マタイによる福音書7章2節)と言います。その通りだと思いますが、この「人に厳しく自分にも同じくらい厳しく」というのは現実的に可能なのでしょうか。
私がよく挙げる例として「医者の不養生」「牧師の不信心」「教師の不勉強」ということがあります。私は教員の経験があります。教員の皆さんって、びっくりするほど勉強していないのです。自分たちは「勉強させる」のが仕事だと思っていて、自分では勉強しないのです。「牧師の不信心」も同様です。牧師って、人に信仰させるのが仕事だと思っていて、自分では信仰していない人が少なくないと感じます。最初は揶揄して言っていたのですが、よく考えるとこれは人間として避けられない性質のような気もするのです。「自分のことは棚に上げて」という、これもよくない意味で使う言いかたがありますが、自分のことを棚に上げなかったら、何も言えない気がします。
これも教員の時代の話ですが、精神科医から言われたことがあります。教師で、生徒に接するように自分の子どもに接してしまう人がいるそうです。それはよくないことだそうです。「そこはダブルスタンダードで」と医師に言われました。教員で、生徒の前でだけ「おっかない教員」の顔を「演じて」いた人は少なからずいました。生徒の前ではおっかない教員で通っているのですが、すでに職員室でただのおもしろおじさんだったりするのです。(皆さんも学生時代にやたらおっかない先生に出会ったことがきっとおありだと思いますが、意外とそれは素顔ではない可能性がありますよ。)「生徒には厳しく、自分の子どもには甘く」。そのダブルスタンダードが大切だったりするのです。
さきほどの聖書の言葉を少し前後から長く引用しますね。「人を裁くな。裁かれないためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。きょうだいの目にあるおが屑(くず)は見えるのに、なぜ自分の目にある梁(はり)に気付かないのか」(1―3節)。たしかに、人を排除していたら、しまいには自分が排除されるでしょう。冒頭の牧師さんのように、自分の言葉がブーメランになっていることを認識するのは大切だと思います。でも、「人を裁くな」と言われてもどうしても裁くのが人間の性質である気がするのです。この聖書の言葉は「山上の説教」と言われる箇所の一部分です。「山上の説教」には、しばしば「不可能なこと」が書いてあることで有名です。だからといって開き直るつもりではないのですが、やはり自分のことを棚に上げないと人には何も言えないと思うのです。
「自分の言ったことに責任を持て」と言われますが、そのような自己矛盾に満ちているのが人間のいつわらざる姿であるように思えてなりません。