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「たまもの」のふしぎ

 「たまもの(賜物)」とはキリスト教会でよく耳にする言葉で、「天から授かった能力」というような意味の言葉です。しかし、私はこの記事で、キリスト教の話がしたいわけではありません。また、以下には、クラシック音楽のたとえ話が3つも出て来ますが、クラシック音楽の話がしたいわけでもありません。「能力というもののふしぎさ」について書きたいと思っています。以下の話をお読みになったかたは、もしかしたら「当たり前ではないか」と思われるかもしれません。しかし、以下の話がほんとうに「当たり前」であるならば、私はこんなに1年も仕事を休むほど困窮はしていないという思いがあります。あるいは以下の話を「鼻につく」と思われるかたもおられるかもしれず、どうもうまく伝わるように書ける自信がありません。しかし、書いてみようと思います。

 前置きが長くてすみません。書き始めますね。

 ハイティンクという指揮者がいます。2015年、私の「第1回ダウン」のとき、実家に帰り、テレビで、ハイティンク指揮ロンドン交響楽団の来日公演で、ブラームスの交響曲第1番を観ました。それに先だち、ハイティンクのインタビューが放送されました。ハイティンクは、「作曲家が一流なのであって、指揮者は二流なのです」と言っていました。いっしょに見ていた母は、非常にその言葉に共感していました。私もいっしょになって、うなずいていたのですが、正直に言うと、どうもはっきりと共感するには至っていませんでした。つまり、母が共感したのは、いかにハイティンクが世界的な指揮者だからといって、ブラームス(あの大作曲家のブラームス!)よりも「偉い」はずがない、なによりも、「作った」人が偉いのだ、という点でした。この件について、つい最近、インターネットで知り合った、クラシック音楽マニアのかたと話したところ、そのかたは「だからハイティンクは二流の指揮者なのだ!」という憤慨したご意見でした。私はその意見を聞き、この6年間の言葉にならない思いを、ようやく言葉にできた気がしました。これが、この記事を書き始まる動機のひとつです。(このやりとりについては、そのマニアさんのホームページにも書かれています。「惑星、タコ8、我が祖国」というサイトの「ルツェルンのアバド」というページです。ご興味のあるかたはご覧ください。リンクがはれなくてまことにすみません。)
 つまり、「作曲の能力」と「指揮(演奏)の能力」は、別ものであって、優劣はない、という事実に目を開かされたのでした。決して、「作曲家がぜったいにえらいのであって、演奏家は二流だ」ということにはならないのです。ハイティンクの謙虚な気持ちはよくわかりますし、そこがハイティンクのよさなのだろうと思いますが、「作曲」と「演奏」の能力は異なるものであって、優劣はないのです。これは、もう少し普通の(多くの人が知っている)音楽でのたとえのほうがはっきりするかもしれません。「歌」を「作詞する能力」と「作曲する能力」と「歌う能力」は、それぞれ異なりますよね?もちろん、これらを兼ね備えた人たち(シンガーソングライター)がいることは知っていますが、それは置いておいて、上の話は「歌をつくった人が一流なのであって、歌手は二流なのです」と言っている歌手のようなものです。歌を作れない歌手からすると、そう見えるかもしれませんが、逆に、歌うことの苦手な作曲家もいるのであって、その価値は、一概にどちらが上だとは言えないと思うのです。(ここまでですでに私に反論したいかたには申し訳ございませんが、もう少し、お付き合いくださいますでしょうか。)伴奏するバンドの「たまもの」を持った人もおり、録音の「たまもの」を持った人もいます。というと、今度は「当たり前ではないか」と言われてしまうでしょうか。どうも、これを書きながら私は、私の意見に同意してくださるかたがあまりイメージできず、反論なさるかたばかりイメージされますので、よろしくないですが、とりあえず次の話に行きますね。

 学生時代に、T先生という指揮者の指揮で演奏しました。T先生の、指揮者としての最大の欠点は「性格が悪い」ということでした。これは、ひとの上にたつ仕事である「指揮者」ということをするにあたって、かなり決定的な弱点だと思われます。私もずいぶん、T先生には、不愉快な思い出があります(私よりもっと不愉快な思いをした仲間はいたと思います)。しかし、T先生は、じょうずに世の中を渡っていって、いまは、某有名音大の指揮科教授になっています。これは、ある意味で、ほんとうにうまい世の渡りかたかもしれません。つまり、T先生は、「指揮者」としては向いていなくても、「指揮者の卵である学生にたいして、棒の振り方を教えたり、スコアの読み方を教える」ことには向いているのかもしれない、と思うからです。(また、その指揮科の学生にたいしては意地悪なのかもしれませんが、それは構わないことにします。大人数のオケを相手にする「指揮」とは違うだろうと思います。)もちろん、同業者から「あいつ、ろくに才能もないくせに、有名音大の教授になりやがって!」というねたまれかたをするのは必定ではないかと思います。しかし、いいのです。「まったくねたまれないで出世する人」はいないのであって、T先生は、生き残りをかけて、自分の「たまもの」をいかして「出世」したに過ぎません。これも「指揮者としての能力」と「指揮を教える能力」はまた違うのであって、両者に優劣はない、ということが私の言いたいことです。もっと有名な例としては、世界的に有名な「指揮の先生」ハンス・スワロフスキーがいます。スワロフスキーそのものが優秀な指揮者であったかどうかはわかりませんが、スワロフスキーに指揮を習った有名な指揮者は、アバドやメータなど、たくさんいます。(スワロフスキーについて興味を持たれたかたには、大塚敬子著『ウィーンに生きて』をおすすめします。スワロフスキーについて触れてあるのはちょっとだけですけど。)

 次の話題に行きます。ストコフスキーという指揮者がいます(上記のスワロフスキーと名前が似ていますが、違う人ですのでご注意を)。ストコフスキーは、バッハのオルガン曲をはじめ、いろいろな作品をオーケストラ曲に編曲しました。ストコフスキーは亡くなってから半世紀近くがたちますが(1977年没)、その編曲作品は、けっこう現代のオーケストラのレパートリーとして残りました。これは、ある私の友人(オランダ人)が、YouTubeで、ストコフスキーを「著名な指揮者にして編曲家」と紹介しているのを見て、改めて感じたことです。たとえば、マーラーという大作曲家がいます。多くの人が認める大作曲家ですが、マーラーの編曲したシューマンの交響曲やバッハの組曲は、どうもいただけません。どうやら、「作曲」と「編曲」も、異なるたまものであって、優劣はないらしいのです!私もずっと無意識のうちに、作曲と編曲では、作曲のほうが「高度な」能力であり、編曲のほうが「二流の」仕事であるかのように、無意識のうちに思ってきました。しかし、それが、そのオランダ人のYouTubeの解説を見て、思ったのです。ストコフスキーは作曲家としてはたいした作品を残していない。しかし、編曲作品は、後世に残るようなすぐれたものを残した。マーラーは、作曲家としてすごい曲をたくさん残しましたが、編曲家としての才能が一流であったかは疑わしい。これ、「ご愛敬の問題」にすりかえないでくださいね。ストラヴィンスキーという「大作曲家」(まぎれもない大作曲家です)が、指揮はへただったということが「ご愛敬エピソード」として語られているのですが、そういう問題ではない。(また、ショスタコーヴィチという作曲家は、ピアノも非常にうまかったと言われていますが「それはすごい!天は二物を与える!」と驚嘆しすぎるのも同様の問題です。私は東大で、頭がよくてスポーツ万能で楽器もうまくてイケメンで、という「何物」も持っている人をたくさん見て来ました。)それは、長嶋茂雄さん(野球選手として一流)や加藤一二三さん(棋士として一流)の「奇行」のかずかずを「ご愛敬」として語るのに似ています。長嶋さんもひふみんも、たとえば単なる事務員であれば、ご愛敬ではすまないはず。私だって、もし「天才数学者」になれていれば(おお、恥ずかしい!)、私のかずかずの「奇行」は、「ご愛敬」で済んだ可能性があります。とにかく「ご愛敬の問題」にすりかわりやすいのは、やはり暗黙のうちに「作曲のほうが編曲より高等」「プロ野球選手としての能力やプロ棋士の能力のほうが『奇行をしない』ことより高等」という暗黙の前提のうちに立っているからです。その前提を払拭したいのがこの小文の目標なのです。とほうもない文章を書いている(とほうもないチャレンジをしている)のがお分かりでしょうか。

 私のある親友が言っていました。鼻は、においはかげるが、歩けない。足は、歩けるが、においはかげないと。パウロも同じようなことを言っていたと思います。これは、一見、わかりやすい例のように見えて、たとえば私の母にこれを言ったところ「それは違う。だって鼻と足は、同じ体の一部だもん」と言っていました。ですから、伝わらない人には伝わらないたとえなのかもしれません。ようするに私は、「においをかぐ能力」と「歩く能力」は別ものであって、優劣はない、ということが言いたいだけなのですが、どうも、これがなかなか伝わらない。いや、このたとえは、あまりに分かりやすすぎて、かえって本質が伝わらないのかもしれない。この「『たまもの』のふしぎ」の話、ほんとうになかなか伝わらない。

 私は、事務職員をしていますが、段ボールはたためないし、掃除はできないし、ひどい無能な事務員です。ある上司は、あるとき、ほんとうにあきれかえりながら、しみじみと、「きみって、ほんとう~に、なあ~んにも、できないんだねえ~」と言っていました。それくらい、普通の人が普通にできるようなことが、ことごとくできない。小さいころからたくさん怒られてきました。にもかかわらず私が45歳のいまになっても、身の周りの当たり前のことがなんにもできないことについて周囲の人間には「あいつは、お勉強さえできれば、あとはな~んにもできなくても、大目に見られて、甘やかされて育ったんだな」と思われています。いや、私が勉強はできたことさえ忘れられているのでありまして、上記の上司は、あるとき、イライラしながら、私に、論文の書き方の初歩を教えてくださったことがありました(私は、その上司よりもはるかに「高い」大学院で、非常にすぐれた修士論文を書いているのですが、あまりに私がなにもかもできなすぎるので、その上司は、思わずそのことをお忘れになったらしい。ごめんなさいね、自分で「非常にすぐれた修士論文」などと書いたら鼻つまみものなのですが、ほんとうにすぐれていたので、そう書かざるを得ませんでした。おゆるしくださいませ)。いっぽうで私は、いま、この記事をお読みの、私に好意的なかたには、買いかぶられています。私は、つねに「段ボールさえまともにたためないのだから、ましてこんなことはできまい」という評価と「東大に受かるくらいにすぐれたおかたなのだから、こんなことは簡単でしょう」という評価のはざまに、さらされています。赤道直下と、北極や南極のあいだをつねに往復しています(温度差が激しすぎるの意)。上にいくつもの例を挙げました。「段ボールをたたむ能力」と「東大に受かる能力」は、別ものであって、優劣はないのです!ここまで言うと反論する人が出て来ますね。私も知っています。「段ボールをたたむ能力」を持った人のほうが、「東大に受かる能力」を持った人よりずっと多い。しかし、それは単に「多い」だけであって、どちらのほうが「難しい」か、どちらのほうが「高度」か、一概には言えない。私にとっては、東大に受かるより段ボールをたたむほうがずっと難しい。それは、段ボールをたたむほうが東大に受かるよりやさしい人のほうが「多い」だけです。(いや、正直に書けば、いまの45歳の私にしたら、いまから東大にもう一度、受かるのはきついかもしれない。しかし、本質的に、「段ボールをきちんとたたむ」「部屋を整理整頓する」「電気のつけっぱなしをしない」「すばやく掃除をする」ことは絶望的に難しい。)

 こんなことを書けば書くほど、反論者が増えることは経験的に知っています。いわく「すばやく掃除をすることは、誰にとっても難しいことだよ」「私だって正月の帰省のときに暖房のつけっ放しをしたわよ(あんただけではない、みんなやることだ)」「おれだって、社会は得意だったけど、数学は苦手だったもんね~(あんたの言っていることは当たり前だ)」などなど。でもね、でもね、そういうことではないの。現に、私は、いま、仕事を1年も休むほどに困窮している!私はひともうらやむ正社員で、たくさんの給料をもらえる安定した職場にいますが、この職場をわざわざ自ら手放さなければならないかもしれないほど、この問題で、困窮しているんですよ!

 この「能力には優劣がある」という発想は、みなさん小学校のときから、成績をつけられることで、刷り込まれています。成績は、実数(いわゆる、普通の数のことです)でつけられます。正確には、0から100までの、101通りの整数で、かな。ともかく、数で能力をはかることについては、私自身、教師だった時代、「ずいぶん乱暴なことをしているな」という実感がありました。人間の能力は、数では測れないものなのに、数で表している。「60点」と「40点」では、どうしても「60点」のほうが価値が高い。数で能力を表す限り、どうしても「優劣」がつく。上下がついてしまうのです。そして、大学を「偏差値」という「数」でしか見ない限り、学歴信仰は続き、よい結果を出し、高いパフォーマンスを出すのが立派な人であり、段ボールしばり「すら」できない人は、よほどなにをやらせてもダメな「できない」人であり、藤井聡太さんや大谷翔平さんを神のように崇め、ホームレスをなまけものと見下し、ひとをできる・できないで見る。そもそも、できる・できないというのは、世の中のニーズにあっているかどうかに過ぎないのであって、いくら数学ができても江戸時代の農民に生まれていればその能力はおそらく生きないですし、たとえば「お花とお話しできます」という「能力」は、とっても素敵な能力ですけど、「役に立たない」と言われる(正確には、「世のニーズにあっていない」というだけなのですが、「役に立たない」という言われ方をする)。とにかく、われわれは能力を「数」で表すことに、あまりにも慣らされていて、無意識のうちに能力に優劣をつけている。かくいう私ですら、上に書きましたとおり、最近まで、「作曲」よりも「編曲」のほうが「格下」の能力であると、「無意識のうちに」思っていたのですよ!「無意識のうちに」!

 これ以上、なにを書くことがありましょうか。たくさんの読者のかたを不快にさせるようなことを書いたかもしれません。申し訳ございません。でも、世の中には「あの鼻さんでさえ歩けないのだ、まして足なんぞが歩けるわけがない」「あの鼻にでさえにおいがかげるのだ、足さんは当然、においくらいかげるだろう」という会話に満ちており、能力に優劣をつけすぎです。それはたんなる多数派か少数派かの違いに過ぎないのですが、たいがい、この話は、当たり前すぎる話ととられるか(くどいですけどこれが当たり前だったら、世に「障害者手帳」などというものはいるまい)、また「腹ぺこの極端な話だ」ととられたり、すぐに「ご愛敬の話」にすりかえられたり、なかなかストレートに受けとめてもらえる人には出会えません。この記事も、ここまでいっしょうけんめい、書いてきましたが、果たしてどれくらいの人に共感してもらえるのか、はなはだ自信はありません。とにかく「たまもの」というのはふしぎなものであり、このことに気づいてだいぶたつ私でさえも、まだまだ「ふしぎだなあ」と思うことがしばしばあるのです。最近のいくつかの出来事によって、認識を新たにしたことがあり(上に書いたいくつかの出来事)、改めて記事を書く気になりました。前置きも長かったですが、終了はもっと長い記事となり、申し訳ございませんでした。私の言いたいことがどなたかに届けば…、という思いです。…届いてくれー!

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