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「他人は救ったのに、自分は救えない」

 私の話には、ひんぱんに奥田知志牧師が出てきます。かなり共感できるのです。発想も、かなり共通したものがあります。奥田先生が言っていることで、私もかねてから思っていた、ということは、たくさんあります。きょうは、そのうちのひとつ、奥田牧師の2020年10月4日の宣教(総理大臣が変わった。「まず自助」と言っている。たしかに自助は大切だ。しかし、究極的に人は自分で自分を助けられない。だれかに助けてもらわないと生きていけない。イエスも、他人は救ったが、自分では十字架から降りられないではないか。しかし、自分は救えないが、他人は救えるのだ。と、だいたいそういう趣旨の宣教)に、そっくりな、私が書いた幻に終わった聖書研究会のレジュメがあるので、ご紹介します。言葉がとびとびなので、補足説明しつつになります。ほんとうは、奥田先生みたいな有名な人に、先に言われちゃったのが、くやしいのです笑

 「聖書研究会レジュメ「他人は救ったのに、自分は救えない」(マルコ15:21-32)」(奥田先生はルカでした)

 「イエスはたくさんの人の病気や障害をいやしたが、自分では十字架から降りられなかった。なぜだろうか。」(奥田先生はまず新しい首相の話をしましたが、私は冒頭からこの話題で入っている)

 「誤植を見つける話」(私は、発達障害の特性のひとつでもあるのですが、本の誤字脱字を見つけるのが得意です。このnoteでも、聖書協会共同訳の誤植の発見とか、たくさん紹介しました。しかし、自分では、誤字脱字をやらかしてしまうのです。このnoteも、あちこちにあります。いちいち直さないだけで)

 「『医者よ、自分自身を治せ』(ルカ4:23)「まずは自分から」とよく言われるが、じつは自分のことがいちばんできない」(読んで字のごとしですね)

 「「医者の不養生」「教師の不勉強」「牧師の不信心」」(この言葉を私が最初に考えたときは、悪い意味で書いていましたが、このレジュメを書いたときには、すでにそう思っていませんね。みんな、自分のことがいちばんできないのです)

 「司書は仕事では図書をNDC順にきちんと並べるが、プライベートではぐちゃぐちゃ」(司書をかじっていた時代に、先輩の司書から聞いた話。さもありなん)

 「先生は「忘れ物をするな」と言うが、自分では忘れ物をする」(これも読んで字のごとし)

 「自分で自分をくすぐっても、くすぐったくない。ひとからくすぐられるとくすぐったい」(付け加えると、ひとをくすぐって、くすぐったがらせることはできる)

 「「あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる」(申命記31:6)」(モーセがヨシュアを励ます場面ですが、「あなた」と言っているところがポイント。「わたしの神、主は、わたしと共に歩まれる」では励ましにならないわけです)

「「主はみなさんとともに」「いつもいつもきみのこと、守ってくれるだろう」」(「主はみなさんとともに」「また司祭とともに」と言い合って、自分以外の人とともに主がおられることを言っている。自分で自分には言えないことの象徴のように見える。また、「(イエスが)いつもいつもきみのこと、守ってくれるだろう」というのは、こどもさんびかですが、いつもいつも「ぼく」のこと守ってくれるだろうとは歌えない。「きみ」のこと守ってくれるだろうと歌い合って、励まし合うしかない)

 「自分で自分は励ませない。ひとから励ませると、すごく励まされる。経験ありませんか?」(読んで字のごとし)

 「絶望のどん底にあっても、ひとを励ますことはできる」(私のレジュメの最後の言葉。奥田先生の説教も、最後は、「自分は救えないが、他人は救える」という話で終わった。)

 以上、私は、自分の経験をもとに、このレジュメを書きました。そしてそれは、奥田先生の説教と、非常に似ていました。ある若い仲間の牧師は、この奥田先生の説教を聴いて、この聖書の箇所でこの話ができるのは、奥田先生だけだ!と言っていましたが、ここに私がいますよ笑

 私、こういう特殊能力があって、前にnoteの記事でも書きましたが、2019年の東工大の数学の第4問を当てていたり、いろいろあるのですが、逆に、多くの人が普通にできる普通のことが、ことごとくできないので、障害者として生きていかねばならないのです…。

 本日は以上です。たしかに、私が奥田先生から影響を受けていることも多々、あります。しかし、このように、奥田先生と独立に、奥田先生と同じことを考えていることも、多々あるのです。ですから、私の記事を見ても、パクリと思わないでね!笑

 ここまでお読みくださり、ありがとうございました。


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