野球×吹奏楽の恋のストーリーへの歪んだ憧れについて

何分、野球部と吹奏楽部の高校生同士で恋愛モノを書かれることが多くなってきた気がする。

勝手な主観かもしれないが、あれはやばい。
何がやばいって男なのに女の子側に自己投影してしまいキュンとしてしまうのだ。

野球×吹奏楽の非現実性

僕は中高大と吹奏楽部でやってきているのだが、そんな甘酸っぱいストーリーはほとんど聞いたことがない。大体は吹奏楽部内で自己完結するか、全く別のよくわからないところから男女が引っ張られてくるかの二択だ。
(もちろん広い日本の中では、野球×吹奏楽はありふれたストーリーである可能性があることは言うまでもないが)

けど、野球×吹奏楽の恋話は(元吹奏楽人であるという贔屓目を除いたとしても)かなり魅力的なストーリーだと感じるし、“憧れ”の原型を形にした1つであるということは言うまでもないのではないか。どこか、ありえそうでありえない、ファンタジーの匂いがする。非現実性をそこに感じ取ってしまうのだ。

その類のストーリーを見るたびに、「私を…私を甲子園まで連れてって!!!」と僕の中の背の低い女が叫ぶ。ヒロインと自分を完全に重ねて叫んでしまう、気持ち悪い成人男性の出来上がりだ。

野球×吹奏楽への日本人的憧れの詰め込み方

ただ、少しだけ気になる点があるとすれば、決まって男性が野球部で女性が吹奏楽部であるという点だ。別にこのご時世、逆であってもなんら不思議ではないではないか

このあたり、日本人の原型的というか、根底から流れ続ける憧れの文化が表れているのではないか。

つまり、野球×吹奏楽といえば、応援される側とする側だ。ここには、男性として応援されたい願望(敢えて言うならば風潮)と、女性として応援したい願望(風潮)が心のどこかに刻み込まれていることの表れであろう。

今ここで言いたいことはジェンダー論でもなく、過激なことでもなく、そういった機序が自分の中にもあるため、“憧れ”として現出しているのではないかということだ。

ただ、僕の憧れがなぜ歪んでいるのかと言うと、上で述べたように完全にヒロイン側と自分を重ねてウキウキしているからだ。
歪んだと表現すると、そういう人もいるかもしれないというご指摘がいただけそうだが、確かにそうだろう。ただ、文化的にというより自分の中では歪んでいるのだ。

ただ、わかる人、いるでしょ。というのが僕の率直な意見でもある。男性で、性自認も男で、ゲイでもないけれど、こういったステレオタイプ的恋愛ストーリーのヒロインに過剰な憧れを持つ人はたくさんいるはずだ、いやいる!!!

こんな記事を書きながらも僕はアオハル的野球×吹奏楽の恋愛モノを思い出しては、心の中の女がキュンとするのを感じている。


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