ケアをする前にまず自分のケアをせねばならないことの必然性について

支援をしてると、ほとほと最適解なんて無いと思いつつ、支援者としてのあり方には一定の条件があるのではないかという考えに至る。

それこそ、タイトルに書いたように「ケアをするにはまずは自分のケアをする必要がある」ということだ。

勝手な経験談なので一般的に言えることでもないかもしれないが、ケアをする人のほとんどは何らかの生きづらさ、困り感を抱えていることがほとんどなのではないかと思う。

私が大学院時代の時も、内心同僚に対して(どっちがケアラーなのかわかったもんじゃないな)と思うことも多々あったものだ(これは私自身も同じように思われていたことも多いだろうが)

自分自身が生き辛い経験があったからこそ人を助けたい。
その動機自体はありふれたものであると思うし、バカにしていいものでも決してない。

しかし、それを抱えたまま支援をし続けてしまうと、様々な弊害が生じてくるのはやはり避けられない。

第一に、自らの言うことに説得力がなくなる。
自分自身がケアしきっていないし、一生懸命生きていないのに、はるかに一生懸命生きているクライエントにどんな言葉をかけられるのだろうか。

第二に、こちらの方が問題なのだが、クライエントから“搾取する”可能性が高くなってしまう。

搾取といっても、これは多様的な意味合いがある。

クライエントを“救っているという優越感”に浸ることで自らのケアすべき部分を隠すことができる。
また、その結果、支援者が気持ちよくなってしまい、結果的に残るのはクライエントから奪われた時間と支援者側の気持ち良さだけという事態が頻発しかねない。

ここまでで言いたいことは、「ケアされない限り一生支援者にはなれない」ということではない。
というかそれでは私自身が支援してはいけなくなってしまう(そのために否定している側面もあるのかもしれないが)。

ここで私が個人的に大事なのは「自分たちもまだ成長途中でケアをされなければならない面がある」ということを認識することだ。

こうすることで、クライエントからも成長させてもらい、ケアしてもらっていることに自覚的になり、ただ一方的に与えるようでもらっているという関係でなくなると思う。

“人”という字はよくできていて、ヒトとヒトが支え合うから人になっている。
これはそれが支援-被支援という関係になっても何ら変わることはないと考えている。
お互いに成長するという観点、これが抜け落ちてはそれはただのエゴイズムに過ぎない。

ただ、ケアが一定進むと支援者に固執しなくてもよくなってしまうという側面もあると思うが、それはまた別の話にしておこう。
しかし、ケアが「完了」されるということは決してありえないと思う。
それはユングが「個性化の過程は一生続く」と述べていることと相違ない。

ここまで非常に偉そうに記事を書いてきたのだが、結論を言ってしまうと、あくまで私個人の考えを述べたに過ぎないし、これは自分のための備忘録であり、自戒である。
ケア観なんて人それぞれでいいと思うし、『ケアされなくてもケアがしたい!』とラノベのタイトルのように思うことも一切否定しない。

ただ、まだ未熟者で若輩者の私だからこそ、こうならないように意識して“生きねば”と思う。

“生きることに一生懸命なピア”に立つことでようやく支援者としてスタートが切れるんだろうなぁと思いながら、ぼちぼち生きることを頑張ろうと思っている。


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