【破壊】湖上の傷、水中のバレリーナ


 部屋にふたつ、ベッドの上に見える影がある。
ひとつは、その大きな背中を荒く揺らしながら、腕を大きく振りかぶり、振り下ろしている。
その降ろされた先に視線を移してみると、そこには髪を乱した女がある。
すぐ近くに目線をズラすと、そこには2人の人間を写した写真が額縁に飾られている。そこに写る女は、白のウェディングドレスを着ている。首元には、十字架をあしらえたネックレスが太陽の陽に輝く。髪の毛も負けじとお洒落で、オレンジブロンドの髪をウェーブで束ね、肩の後ろへまとめている。誰が見ても美しいと称する程の整った顔立ちであるが、それと同時にどこかあどけなさを残す大きく透き通った瞳が特徴的であり、アンビバレンスな可憐さを合わせ持っている。
大きな影「ハァ…ハァ…ハァ。どうだい、殴れば気分が良くなるだろう」
女「い、痛い......痛いよぉ」
大きな影「僕だって痛いよ! それでも健康にはなっているだろう、どうなんだい!」
大きな影の瞳には、ギラギラとした不気味な明かりが灯っている。そして、何かに取り憑かれたように大きな声で女に迫っている。
女「けんこうになんてなれない! こんなことするくらいならしなせて! お願い! 死なせて!」
大きな影「そんなことはさせない。君のことを愛しているんだ!」
女「ぐぎゃっ...ごぽっ」
女の口から出た血が壁を汚した。
吐き出された血の音は、まるで性交渉の際に、陰部から発せられる音のようであり、艶かしい。
女「おねがい! やめて! 」
前歯はもうどれもが粉砕されているか欠けているかのどちらかであり、健常な頃の食事を楽しめるような機能など、損なわれてしまっている。
これだけでも痛々しいが、折れた歯が内頬に突き刺さることによって、多量の出血が起こっている。それが喉に詰まってしまって呼吸が苦しいのだろうか、時折血を飲み込んでいたのだが、その際に誤って砕けた歯までも飲み込んでしまっているので、喉からも出血している。
しかし、飲みきるペースが全然間に合わない。そうして、咥内で行き場を失ってしまった赤い液体は、今度は女の顔を汚しだす。強く殴られて紫色に痣を作った頬に、べっとりとした赤黒い血が足されていく。もはや、元の顔など無くなった。
本来であれば、出血多量と激しい殴打によって、もうとっくに気を失っていても良いはずなのだが、不幸なことに、布団がクッションの役割をしてしまっているため、口と喉以外のダメージは少なく、彼女にとっては苦痛を味合う時間だけが延々と過ぎていく。
しかし影は気にせず、女の顔を殴る、殴る、殴る。
女「ぐぱっ、ぐぽっ、ぐばぁ」
骨に骨をぶつける音が、次第に粘度を帯びはじめ、淫靡な音にかわる。愛液の代わりに血液を、陰茎の代わりに拳を使った交わりにも思える。
すると突然、影が顔をしかめた。拳を見てみると、どうやら女の歯が拳に突き刺さったらしく、そこから出血している。
大きな影「僕だって痛い。これは2人で痛みを共有する作業なんだ。それで、健康になるんだ」
 女は何も語らない。いや、語らないのではない。
語れないのだ。彼女の唇はもはや形をなしておらず、頬との境目が無くなっている。鼻も陥没しており、肺まで酸素を届けることが出来ていない。生命を維持するための呼吸器官が、いまや彼女を苦しめるための拷問器具に成り下がった。
やがて、口から大きく血を吐き出すと、それっきり反応は無くなった。
大きな影「ごめんね。でも、喜ばれることだ。君だって喜んでくれるはずだ。一緒に楽しく暮らそうねって、言ってくれた君ならわかってくれる。それに、これでもう傷を付けられる心配もない。僕が、君だけに安心をもたらす為の暴力になったのだから」
そう言って影は、だらりとしていた女の手からするりとナイフを抜き取る。そしてそのまま、喉に当てた。
 すると、冷たい何かが腕に触れる。
それはもう死んでしまったと思われた女の手だった。口なんてもうどこにも無くなってしまったはずなのに、何故か影は、女の言おうとしていることが分かってしまった。
だからこそ、より深く、自分の首をナイフで確実に抉るために、両の手でナイフを握りしめながら、勢いよく半月の弧の影を描き、突き刺した。
 部屋にふたつ、ベッドの上にみえる影がある。
ひとつは、首から濁った虹を咲かせる男の姿。
ふたつは、自らを襲った狂気にさえ最後まで愛を見出し、そうしていつしか耐え切れずに死んでしまった、女の姿である。

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