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天空の魚影



登場人物
和井内貞行        
和井内カツ子    
勝蔵                
松原新之助        
寛太                
松吉                
松吉の娘 道子
村人一
村人二
鯉(マス)一
鯉(マス)二


○十和田湖に続く山道

うっそうと茂る木立を抜け、なだらかな山道が続いている。
初夏を思わせる風が笹の葉を揺らしている。
花道より村人一、二が駆けてくる。

村人一 「和井内はいたか」
村人二 「見失った。野郎どこへ行きやがった」
村人一 「本当にこっちに来たのか」
村人二 「たぶん」
村人一 「お前がこっちだといったんだろう。銀山のほうに逃げた
    んじゃないのか」
村人二 「とにかく見失った」
村人一 「いいか、和井内はまた鯉を十和田湖に放流したんだぞ。
    勘弁できないってお前も言っただろう」
村人二 「見失ったのは俺だけのせいか。お前がぐずぐずしてるか
    らだ」
村人一 「何だと」
村人二 「なにっ」
村人一 「……喧嘩してる場合か」
村人二 「そうだな」
村人一 「とにかく向こうをさがそう」

二人、上手に走っていく。

花道より。

農商務省の技師、松原新之助と和井内カツ子が歩いてくる。
松原は上着を小脇に抱え鞄を持ち、流れる汗を拭いながら、手
帳を広げている。
カツ子は背負子で大荷物を背負っている。

松原 「十和田湖は未だ実測したものがなく、その面積は詳らかに
   せず。湖水清冽にして夏期は十八度を超えず冬期は全面凍
   結することまれなり。中山と、ええっと...汗で文字が」
カツ子「御倉山ですか」
松原 「それです。その御倉山との間は噴火口にして円形の湾をな
   し中海と称す。水深は三百尺以上あり」
カツ子「泉八さんが言われていました。十和田湖は絶壁になって     
    いて底が知れないほど深いって」
松原 「三浦泉八さんですか。宇樽部を開墾された」
カツ子「ご存知ですか」
松原 「そりゃもう。十和田鉱山の物資を運ぶための、戸来に通じ
   る街道を作られた功労者ですから。ご主人の和井内さんは
   泉八さんの勧めもあって、十和田湖に鯉を放流されたって
   聞いております」
カツ子「松原さん、お詳しいですね」
松原 「これでも農商務省の技師ですから。この度水産事項特別調
   査という報告書を製作することになりまして全国色々調べ
   て回っています。今回和井内さんに鯉の養魚の話を聞きに
   来たのもその為で...それにしても暑いですね。それにこの
   格好。とても山歩きする姿じゃありませんね。...あの、少
   し休みませんか」
カツ子「お疲れですか。すみません」

カツ子、背負い荷物を下ろす。

松原  「しかし十和田湖は綺麗だな。他にはない美しさがある」
カツ子「晴れた日は空が湖面に移ってとても神秘的なんです。     
    それに高いところにあるから天空の湖と呼ぶ人もい
    ます」
松原 「天空の湖ですか、なるほどね。しかしカツ子さんは凄い  
   な」
カツ子「何がです」
松原  「そんな荷物担いで、か細い女の人がこんな険しい山を。私
    は鞄だけなのにこの様です」
カツ子「買い出しや何やらありまして。それに主人の実家がコメ 
    や味噌、季節の野菜とか沢山くださって。でも山で暮ら 
    すなら当たり前です」
松原  「そうですか」
カツ子「山には殆ど食べるものがありません」
松原  「聞いています。コメや麦など馬の背に乗せ運び、乾物類を
    八戸、青森から取り寄せるとか」
カツ子「それも冬になると雪に閉ざされて、まともには手に入ら 
    なくなります」
松原 「それじゃ新鮮なものはおろか、ろくなものは食べられませ
   んね。しかし何故なんですかね、大きくてあれ程綺麗な十
   和田湖に魚が一匹もいないのは」
カツ子「...私には分かりません」
松原 「地元の方によりますと神様のせいだと言ってるらしいです
   ね。確か青龍権現や南祖坊でしたか」
カツ子「(頷く)」
松原 「青龍権現は生臭いものを忌み嫌うから、十和田湖に魚が住
   めない。この手の迷信は沢山あります」
カツ子「でも、この村の人は信じています」
松原 「和井内さんの養殖がうまくいけば、誰もそんな事は口にし
   なくなりますよ」
カツ子「はい」

船方の佐藤勝蔵がやってくる。

勝蔵 「カツ子さん、旦那に頼まれて迎えにきました」
カツ子「ありがとうございます。この人は銀山で船方をしていた 
    勝蔵さんです。ええっと、こちら東京の農商務省の...」
松原 「松原新之助です、よろしく。この度和井内さんに養鯉につ
   いて話を伺いにまいりました」
勝蔵 「今日も鯉を放してきました」
松原 「本当ですか」
勝蔵 「旦那と私とで、五千尾ほど」
カツ子「うまくいきましたか」
勝蔵 「はい」
松原 「今回で何度目の放流ですか。確か明治十七、十八年の二回
   放流されて」
カツ子「それと二十四年に三千尾」
松原 「合計で」
カツ子「およそ一万尾です」
松原 「そいつは凄い。一個人でよくそこまで」
勝蔵 「旦那はこの事業に心血注いでますから。ああゆうのを猪突
   猛進と言うのでしょうか」
松原 「益々話が聞きたくなりました。早く水揚げできるといいで
   すね」
カツ子「出来ます今度こそ。きっと来年には大きくなって帰って 
    きます」
勝蔵 「その通りだと言いたいのですが、旦那は必ず帰ってくると
   は限らないとおっしゃいました」
松原 「自然が相手だと、うまく行かない事もあります」
カツ子「もし来年がだめなら」
松原  「だめなら」
カツ子「再来年があります。だから何とかなります」
松原  「なるほど」
カツ子「そろそろ行きましょう。日が暮れると大変ですから」
松原  「はい」
勝蔵 「それじゃ荷物は私が」

勝蔵が軽々とカツ子の荷物を背負う。
キジの鳴く声。
炭焼き人扶の松吉と娘の道子、寛太が通りかかる。
松吉と寛太、カツ子たちを見て顔を背ける。

カツ子「お疲れ様です。今日は暑かったですね」
道子 「はい」
寛太 「口をきくな」
道子 「......」
カツ子「どうしてですか」
寛太 「お前らに話しかけられると迷惑だ。行こうぜ」
カツ子「挨拶くらいさせてください」
寛太 「こっちに来るな」

寛太、持っていた木の枝を投げつける。

カツ子「痛い(枝が当たる)」
松原 「大丈夫ですか」
勝蔵 「なにするんだ」
寛太 「また十和田湖に魚を放したな。この罰当たりが」
勝蔵 「お前はまだそんな戯言を言ってるのか」
寛太 「なんだと」

寛太、勝蔵に殴り掛かる。
二人、取っ組み合いになるが引き離され。

寛太 「もう只ではすまないと亭主に言っておけ」
松吉 「カツ子さん、昔からこの辺りに住んでいるわしらは、青龍
   権現様を信じている。だから和井内さんがやっていること
   は、わしらにとって許しがたい事だ」
カツ子「でも十和田湖で鯉が取れたら、冬場でも飢饉が来ても、 
    みんなが助かります」
勝蔵 「そうです。冬場に食べるものがあれば、松吉さんの息子さ
   んだって助かった」
松吉 「あれは運命だ、あんたらには理解できん事だ。……カツ子 
   さん、わしらは十和田湖と共に生きるしかない。寛太、行  
   くぞ」
寛太 「ああ」
カツ子「松吉さん」
松吉 「何だ」
カツ子「主人と初めて十和田鉱山に来た雪の日に、峠から見下ろす神々しい  
            十和田湖に私たちは心を奪われました。そして生涯ここで生きてい
            こうと決心しました。私たちも十和田湖の住人です」
松吉 「そう思うのはあんたの自由だが、わしらは認めない」
寛太 「お前らはよそ者だ。勝手なことをするな」

松吉、寛太去っていく。

松原 「カツ子さん、大丈夫ですか」

カツ子、額から血が出ている。
その血を拭おうとせず、

カツ子「松吉さん、十和田湖と共に生きるのは、私たちも同じです」

音楽IN。
カツ子にスポット残しで溶暗。

○和井内貞行の家(夕暮れ)

十和田湖畔に建つ粗末な建屋。
下手木戸、土間、二重。
入口に水瓶。
二重上には火鉢、行李、枕屏風、ランプ。文机、書見台など。
文机の上には書籍が並ぶ。
表には天秤棒や盤台、刺し網などが置かれている。
辺りは藪が広がる。
松原、上がり框に腰を下ろし拭いで汗を拭っている。
勝蔵、背負子を下ろす。

勝蔵 「大丈夫ですか、お怪我はありませんでしたか」
松原 「わたしは特に。しかし乱暴だ、カツ子さん、大丈夫かな(部
   屋の奥を気に掛ける)」
勝蔵 「今の連中にしても、決して悪い奴らじゃありません。普段
   はとても気のいい奴らです」
松原 「あの方たちも青龍権現の信者さんですか」
勝蔵 「そうです。青龍権現の信者は祈願の十七日前から魚をいっ
   さい食べません。それどころか魚という言葉を使うだけで
   神罰が下るものと、固く信じています」
松原 「徹底していますね。そんなところに、和井内さんは鯉を放
   した。しかも一万匹も。これは地元の理解を得るのは難しそうだな」
勝蔵 「まあ、そういうことです」

下手より、和井内貞行が急ぎ出てくる。
貞行、辺りを伺うと被りを取り家に入る。

貞行 「今帰った」
カツ子「お帰りなさい。東京のお客さんをお連れしました」
松原 「農商務省の松原新之助です」
貞行 「和井内です。一昨年、小坂鉱山でお会いしましたね」
松原 「はい、この度は水産事業の調査で参りました。農商務省も
   和井内さんの養鯉にとても興味をいだいております」
貞行 「そいつは有難い」

貞行、木戸外を伺う。

貞行 「カツ子腹が減った。すぐに飯にしてくれ」
カツ子「はい」
貞行 「どうぞ、お上がりください」

松原、上に上がる。

貞行 「その怪我はどうした」
カツ子「なんでもありません。すぐ仕度致します、お二人も召し上
    がってください」
松原 「ありがとうございます」

カツ子、奥の間に去る。

貞行 「勝蔵さん、何かあったんですか」
勝蔵 「それがそのぉ」

表に青龍権現の信者や湖畔の村人が集まってくる。
その中に松吉と寛太もいる。
「和井内、出てこい」「罰当たりもの」などと、村人たちが罵
りの声を上げだす。

貞行 「やはり来たか」
勝蔵 「出ちゃいけません。追い返します」

村人たち、勢いよく入ってくる。
カツ子、騒ぎに驚き飛び出てくる。

村人一「おい和井内、また十和田湖を汚しやがったな。すぐここ 
    から出ていけ」
貞行 「出ていきません」
村人一「何だと」
貞行 「これでも十和田鉱山に努める身です。はいそうですかと出
   ていけるはずありません」
寛太 「鉱山勤めのよそ者が、土地の神様を冒涜して只で済むと思
   っているのか」
貞行 「またそれか」
寛太 「何度も忠告したはずだ。俺たちも鉱山から恩恵を受けてい
   るから大目にみたが、これ以上好き勝手を許したら神様の
   怒りをかっちまう」
貞行 「怒りをかったらどうなるのです」
寛太 「飢饉が来るかもしれない」
村人一「伝説の大災害がくるかも」
貞行 「ありえません」
寛太 「何だと」

寛太、和井内につかみかかる。

松吉 「止めろ」
寛太 「とめるな松吉さん、袋叩きにしてやる」
松吉 「寛太、落ち着け。俺が話をする」
寛太 「......」
松吉 「和井内さん、一度飢饉が来るとこの辺りがどうなるか、あ
   んただって知らないわけじゃないだろう。青龍権現様の怒
   りをかうと死人がでる」
貞行 「何度も申し上げていますが、神様と飢饉は関係ありませ 
   ん。いろんな要因が重なってその結果飢饉は起こります。 
   そういう時の為にも今やっている養鯉事業は不可欠です」
寛太 「うまく行くはずない。お前の放した鯉を一度でも見た奴が
   いるか。十和田湖に魚が住めないのは、青龍権現様が魚族
   を嫌っているからだ」
貞行 「十和田湖に魚がいないのは別の訳があります。その理由は
   必ず突き止めます」
松吉 「それじゃそれを突き止めるまで、養鯉をやめてくれ」
貞行 「何ですって」
村人二「それは名案だ。神様以外に訳があるなら。それをわしら
    に示してもらおう」
貞行 「それを調べるためにも、魚の放流は不可欠です」
寛太 「それじゃまだ続けるというのか」
貞行 「私がこの事業をやろうと思ったのは、松吉さん、あなたの
   息子さんが、病の母親に新鮮なものを食べさせたいと雪山
   を下って遭難し亡くなった。それがきっかけです」
松吉 「...」
貞行 「この事業がうまくいけば食糧事情は改善しこの地域は豊か
   になります。でもここからが肝心だ。例えば生きている鯉
   は高値で売れるが死んだ鯉は買い手がない。だから私は、
   その鯉を缶詰にして地方に売ります。それを足掛かりにし
   て十和田湖に観光事業を起こすんです」
寛太 「それで一番儲かるのはあんただろう」
貞行 「多少は儲からないと。でも私の目的は」

寛太、貞行を殴り胸ぐらを掴む。

寛太 「自分の金儲けのために神様冒涜して、揚句松吉さんの倅の
   事まで持ち出しやがって、どういうつもりだ」
貞行 「このままじゃまた誰かが」
寛太 「黙れ」

寛太、貞行を殴る。

貞行 「この分からず屋が」

貞行、寛太に飛びつき二人はもみ合いになる。
カツ子、その二人の間に割って入ると、貞行の頬を張る。

貞行 「な、何で」
カツ子「分かってもらえないからといって、村の人を殴ってどう
    なるんです」
貞行 「しかし」
カツ子「皆さん、鉱山には一山一家って言葉があります。山に住 
    み働いているものはみんな家族なんだって意味です。私
    たちは山に住み十和田湖と共に生きていこうとしていま
    す。ですからどうか皆さんの家族にしてもらえません
    か」
松吉 「家族になりたいなら、皆の気持ちも分かってもらわない
   と」
カツ子「それは承知しています、でも」
松吉 「カツ子さん、言いたいことは分かるが、皆には皆の事情が
    あるんだ」
カツ子「...」
松吉 「それに本当に鯉が取れるようになっても、それで全てうま
   く行くとは限らない」
カツ子「どういう事です」
松吉 「(それには答えず)...さあみんな、帰るぞ」
村人二「でも」
松吉 「いいから帰るんだ」

村の衆、松吉に促され帰っていく。

勝蔵 「旦那、大丈夫ですか」
貞行 「大丈夫だ。しかし、なかなか受け入れてくれないな」
カツ子「そのうち必ず。ですから、信念を曲げないでください」
貞行 「分かっているよ、最後まで遣り通すさ」

音楽 IN
盛り上がりの中、溶暗。


○前幕又は暗転幕前

ゆるい音楽、IN。
舞台明るくなると、なぜか鯉の着ぐるみを着た二人組が立って
いる。彼らは一応、ナレーターの代わりである。

鯉一 「鯉です」
鯉二 「...鯉です」
鯉一 「私たち十和田湖の大鯉です」
鯉二 「かなり無理ありますけどね」
鯉一 「前幕から二年。明治二十七年にようやく鯉が取れるように
   なります。和井内貞行が初めて鯉の稚魚を十和田湖に放流
   したのが明治十七年。それから明治二十五年にいたるまで
   合計一万尾放流しました。そして明治二十七年になり湖岸
   のあちらこちらで四十センチもある大鯉が沢山取れるよう
   になりました」
鯉二 「それを見た村人も掌を返して、僕たちを捕まえ始めました」
鯉一 「便乗した鉱夫は湖面でダイナマイトを爆発させ、その衝撃
   で鯉を取るという荒っぽい事をしました」
鯉二 「死んだり気を失って僕たちは湖面に浮き上がります」
鯉一 「そこを捕らえます。ダイナマイト漁といい、生態系を壊す
   ために今は多くの国で禁止されています」
鯉二 「あれはひどい。ところで、もう楽屋帰っていいですか」
鯉一 「どうした」
鯉二 「こんな格好させられて恥ずかしいからです」
鯉一 「鯉は嫌いなのか」
鯉二 「そういう事じゃなくて」
鯉一 「駄々をこねられても困る。和井内さんはまず鯉を放流した
   のだから」
鯉二 「この格好に疑問があります」
鯉一 「役者が好き嫌いで役を選ぶな。君はやる気があるのか」
鯉二 「やる気はありますよ」
鯉一 「なら頑張ろう。言っておくがこれはやる気詐欺とかじゃな
   いぞ」
鯉二 「話しの焦点がずれてませんか」
鯉一 「そんな事はない」

その後、取り止めのない話が続くなか、溶暗。


○十和田湖湖畔の小屋前
夜更けの湖畔近くの森。
中央から上手に作業小屋。小屋は閂が掛かる戸があり、中は農
作業や木の伐採に使う道具がある。
下手は立木など。
大きな籠を背負った村人が飛び出してくる。

村人一「(辺りを見回し)それにしても大きな鯉だ。それがこれだけ取れりゃ 
    ありがたいぜ」
村人二「まったくだ」 

ダイナマイトの音。
鳥の声。

村人二「今の発破は鉱夫の連中か」
村人一「たぶんな」
村人二「やることがえげつないな。おい、今の音で和井内がくると
    いけない。さっさと逃げようぜ」
村人一「ああ」

二人、逃げていく。
入れかわり、勝蔵と貞行が出てくる。

貞行 「この辺りで声が聞こえたんだが。見失った」

ダイナマイトの音。

勝蔵 「ちくしょう、また発破だ。どいつもこいつも好き勝手しや
   がって。旦那、このままじゃそのうち」
貞行 「鯉がとれなくなります」
勝蔵 「村の連中はこれまでは散々脅しておいて、いざ鯉がとれる
   ようになると我先にと捕まえ始めやがった。それも旦那の
   許可なしに。腹が立って仕方がありません」
貞行 「密漁は許しがたいが、こちらも専用漁業権がありません」
勝蔵 「鉱夫はダイナマイトを使って小さな魚まで根こそぎだ。こ
   れじゃ鯉が一匹もいなくなる。骨を折った甲斐がありませ
   ん」
貞行 「分かってます。だから密漁の現場に行って、止めてくれと
   説得しているんです」
勝蔵 「それで聞き分ける連中じゃありませんよ」
貞行 「やめてくれませんね。湖畔に戻りましょう」
勝蔵 「発破の音は向こう岸です。今からじゃ間に合いません」

勝蔵、小屋に下がっているロープを取る。

勝蔵 「まだこの辺りに村の連中がいるはずだ。捕まえて駐在に突
   き出すんです」
貞行 「そんな事をしたら、カツ子が何というか」
勝蔵 「そんな事を言ってる場合ですか」

カツ子がやってくる。

カツ子「お前さん」
貞行  「カツ子、どうしたんだ」
カツ子「鉱山事務所から松原さんが騒ぎを聞きつけてお越しになり、
    事情を話したら飛び出して行かれたんです」
勝蔵  「カツ子さんは家にいてください」
カツ子「でも松原さん、明かりも持たずに」
貞行  「勝蔵さんの言う通りだ、松原さんは私たちがさがすから、
    お前は帰るんだ」

鳥の騒ぐ声。

勝蔵  「誰か来た」
カツ子「松原さんじゃ」
貞行  「いや、違うな」

三人、物陰に隠れる。
密漁帰りの寛太が来る。

貞行 「おい、それを置いていけ」

貞行と勝蔵、寛太を挟み撃ちにする。
逃げようとする寛太を、二人が取り押さえて縛り上げる。

カツ子「おまえさん、やめてください」
貞行  「仕方がないだろう」
勝蔵  「さあ、立て」
寛太  「どうするつもりだ」
勝蔵  「今からこの小屋に閉じ込めて、明日の朝、駐在所に突き出
    す」
寛太  「十和田湖は皆のものだろ」
勝蔵  「盗人が。さあ来い」

勝蔵、寛太を小屋に入れると柱に縛り戸に閂を掛ける。

寛太 「ここから出せ」
勝蔵 「うるさい」
寛太 「鯉をとっているのは俺だけじゃないぞ」
貞行 「あなたたちは、自分で自分の首を絞めているのが分からな
   いんですか」
寛太 「こんな事になったのは俺たちのせいじゃない。和井内さん、
   あんたのせいだ」
勝蔵 「何だと」
貞行 「どういう意味です」
寛太 「自分で考えろ」
勝蔵 「盗人のいい訳ですよ、気にすることはありません。行きま
   しょう」
貞行 「ああ」
カツ子「お前さん、やっぱり出してあげてください」
貞行 「密漁をやっていたんだ」
カツ子「閉じ込めるなんていけません」
勝蔵 「お灸をすえてやったほうがいいんですよ」
貞行 「いいから放っておけ」
カツ子「でも......」
勝蔵 「あの野郎、こんな小さな鯉まで...」

貞行と勝蔵、カツ子を引き連れ帰る。
寛太、しばらく声を荒げるがやがて静かになる。
虫の声。
松原が出てくる。

松原 「勇んで飛び出したのはいいけど誰もいない。それにどちら
   に行けばいいのか。もしかして迷ったのかな」
寛太 「おい」
松原 「(驚き)こ、声がした、誰かいるんですか」
寛太 「小屋の中だ。閉じ込められたんだ、助けてくれ」
松原 「小屋ですか」

松原、小屋を探し当てる。

松原 「閂がかかっている。誰かに閉じ込められたのですか」
寛太 「和井内だ」
松原 「え、和井内さんが。あなた誰です」
寛太 「休屋の寛太だ」
松原 「あなたも鯉を獲っていたんですか」
寛太 「村の者じゃないのか」
松原 「農商務省の松原です。和井内さんが閉じ込めたのなら出す
   わけにはいかない」
寛太 「いいから出せ」
松原 「あんた達可笑しいでしょう。青龍権現の祟りだとか何とか
   言ってあれだけ反対しておきながら、いざ鯉がとれるよう
   になったら今度は乱獲している。あの鯉は和井内さんが自
   費を投じて大切に育て上げたものなんだ。たとえ専用漁業
   権がなくても勝手に獲っていいものじゃありません。これ
   じゃ一匹も獲れなくなってしまう」
寛太 「鯉は沢山いるだろう」
松原 「あなたは馬鹿だが、鯉はそれ程馬鹿じゃない」
寛太 「何だと」
松原 「そこで反省してなさい」

松原、去っていく。
辺りは静まりやがて虫音が響く。
カツ子が戻ってくる。
カツ子、小屋の閂を外す。

寛太 「誰だ」
カツ子「カツ子です。寛太さん、大丈夫ですか」
寛太 「何しに来た」
カツ子「戻ってきました。寛太さんが気になって」

カツ子、手にした提灯を床に置くと、寛太を小屋から連れ出し
て縄を解く。

寛太 「逃がしてくれるのか」
カツ子「うちの人が馬鹿な真似してすみませんでした。(腰の包みを     
    取り)お腹空いたでしょう。これ食べてください、おむすび
    です」

寛太、目の色を変えておむすびを貪り食う。

カツ子「寛太さん、こんな事になったのはうちの人のせいだって、
    どういう意味ですか」
寛太  「...」
カツ子「密漁がうちの人のせいだと言うんですか」
寛太  「みんな苦しいんだ。そんな俺たちに餌を見せれば誰だって
    食らいつくだろう」
カツ子「そうかもしれませんが、獲りつくしてしまうととそこで終
    わりです」
寛太  「もう誰も歯止めが利かなくなっているんだ」
カツ子「鯉は獲ってください、私が主人を説得します。ですから皆
   さんに乱獲だけはしないように寛太さんが伝えてくださ
   い」
寛太  「しても無駄だ」
カツ子「お願いします」
寛太  「カツ子さん、俺たちが鯉を獲っているという事は、信心が
    揺らいだって事だ。松吉さんが心配したのは、鯉が獲れる
    ようになれば信仰が揺らいで、村の者がバラバラになるん
    じゃないかと思っていた。それが現実になってしまった」
カツ子「(何て言っていいか分からず)......」
寛太 「信仰は俺たちにとって秩序みたいなものだったんだ」

寛太、去りかけて際に立ち止まり。

寛太  「あの時はすまかった」
カツ子「え」
寛太  「昔あんたに怪我をさせたことがあっただろ。当てるつもり
    はなかったんだ、手元が狂ってしまった」
カツ子「そんな事忘れてました。寛太さん、ありがとう」

寛太、どぎまぎして慌てて走りさる。
貞行、戻ってくる。

貞行  「この先で松原さんに会って、明かりを渡して戻ってきた。
    そうしたら話し声が聞こえて」
カツ子「すみません、勝手な事をして」
貞行  「いいんだ」
カツ子「わたし、そんな事考えもしませんでした」

風が吹いて木の葉が擦れる音。

貞行 「カツ子、私たちは本当に正しい事をしているのかな」

風の音強くなり、ざわめきが増す。
音楽盛り上がり、その中で溶暗。


○幕前又は暗転幕前

ゆるい音楽、IN
明るくなると、また鯉の二人組が立っている。

鯉一 「鯉です」
鯉二 「...です」
鯉一 「ちゃんと言えよ」
鯉二 「......」
鯉一 「滑舌の問題かな」
鯉二 「十和田湖の鯉です」
鯉一 「で、それから鯉は益々取れだして青森、秋田両県から十和
   田湖の湖水の使用許可を得た和井内貞行は、明治二十六年
   に鉱脈がつきた十和田銀山の休山に伴い鉱山事務所を辞
   職、明治三十年に本格的な養鯉事業を始めました」
鯉二 「親戚一同から凄く反対されたそうですね」
鯉一 「その人たちを説得してくれたのは貞行の父、治郎右衛門で
   した。その後貞行はすっかりさびれた銀山の商家を買入れ
   観湖楼という旅館を始めました。それから人工孵化場、缶
   詰工場の建設と資金を投入していきますが、なんと、その
   後鯉が取れなくなってしまいます」
鯉二 「十和田湖は深いので、鯉は人に捕まらないよう深いところ
   に潜るようになりました」
鯉一 「それで貞行は日光養魚場や県庁の水産課に足を運びカワマ
   スの養殖に取り組みます。うまく行くかと思われたこのカ
   ワマスですがこれも失敗。続いて放流した日光マスも失敗
   と、貞行は失意のどん底に落ちていきます」
鯉二 「そのマスもお金がかかってるんですよね」
鯉一 「その通り。和井内一家は貧困を極めました」
鯉二 「ところでもうマスの話になったという事は、鯉は必要ない
   ですよね」
鯉一 「やる気を出をだそう」
鯉二 「私の台詞は終わりました。これ以上何を」
鯉一 「台詞のないところでも演技する、役になりきる」
鯉二 「鯉になりきるってどうするんです、手本を見せてください」
鯉一 「手本」
鯉二 「はい、御願いします」
鯉一 「......だから」

鯉一、鯉のパフォーマンスをはじめる。
その中で溶暗。


○十和田湖湖畔の小屋前(明治三十三年)
前々幕と同じ背景だが季節は初冬。
雪が降り、辺りは所々白くなっている。
刺し網を抱え、貞行と松原が歩いてくる。

松原 「...おっしゃる通り、何度刺し網を入れても、せいぜい五、
六匹掛かるだけでしたね」
貞行 「とれたカワマスを調べてみると、共食いの傷があります。
   それに日光マスの稚魚もやられている。おそらくカワマス
   は魚食性です」
松原 「私が提案した奥入瀬川の銚子大滝の魚道。あれもかえって
   現状を悪くしたのかもしれません」
貞行 「どういう事です」
松原 「くわしく調べてみないと確かなことは言えませんが、大き
   な滝の魚道をマスはあまり遡らないと聞いたことがありま
   す。ですから海に降るのを魚道は助けても、遡上ではあま
   り役に立たなかった。そしてわずかに魚道から遡ったカワ
   マスが日光マスの稚魚を食べ、共食いを始めた」
貞行 「......」
松原 「魚道を提案したのは私です。私が甘かった、すみません」
貞行 「いいんですよ、何事もやってみなければ分かりませんから。
   それにしても魚が川を遡っても滝に阻まれて湖に入れな
   い。銚子大滝のせいですよ、十和田湖に魚がいないのはっ
   て松原さんに言われた時は、目の前がぱっと晴れた気がし
   ました。青龍権現の迷信も千年の神秘も、松原さんのその
   一言が打ち破ったんです」
松原 「気が付けば簡単な理由です。でも私はそのついでに魚道を
   作れと言ってしまった」
貞行 「それはいいんです。まあその内、魚道は埋めなおします。
   ...松原さん、わたしは今までさんざん色んなことをやって
   きたが全て駄目だった。これからどうしたらいいんでしょ
   うね」
松原 「やはり湖内で回帰するマスを探すしか」
貞行 「わたしもそう思います。この日本は広い。必ずどこかにこ
   の十和田湖にあうマスがいるんじゃないかと捜し求めてき
   たんだが、そんなマスはいないのかもしれない...。私はも
   うやめたほうがいいんでしょうか」
松原 「あきらめてしまうのですか」
貞行 「松原さんはいると思っているんですか」
松原 「全国をくまなく調査したわけじゃないのでなんとも......、
   けれど、わたしはいると信じています」
貞行 「......」
松原 「和井内さん、青森の東北漁業組合の本部を訪れてみるのは
   どうですか。もしかしたら何かきっかけがつかめるかもし
   れない」
貞行 「東北漁業組合の本部ですか...」
松原 「駄目もとで行ってみてはいかがです」
貞行 「......そうですね」

雪がちらついてくる。

松原 「また降ってきましたね」
貞行 「......これで最後にします」

貞行、帰っていく。

松原 「本当に、こんどこそ何か見つかるといいんだが」

寛太と村の者が通りかかる。

寛太 「あ、農商務省の」
松原 「休み屋の」
寛太 「寛太だ」
松原 「暴力反対です」

花道より、カツ子が大きな荷物を背負って歩いてくる。

松原 「カツ子さん」
カツ子「お疲れ様です。もうマスの調査は終わりましたか」
松原 「ええ、取りあえずは」
カツ子「(ふらつく)私もお手伝いできればよかったんですが」
松原 「いえ、そんな」
カツ子「あ痛たたた」

カツ子、倒れ込む。

松原 「カツ子さん、どうしました」
寛太 「大丈夫かッ。おい、手をかせ」

皆で背負い荷物を外してやる。
村人が水を与える。

寛太  「カツ子さん大丈夫か」
カツ子「もう平気です」
寛太 「無理しすぎだ、こんな大荷物を」
村人一「こんなの背負って毎日山を下りたら、わしらでも身体がま
    いっちまう」
松原  「毎日ってどうしてです」
カツ子「豆腐とこんにゃくを作りまして、それを売りに」

カツ子、せき込みだす。

寛太 「凄い熱だ、家に連れてかえるぞ。カツ子さん、立てるか」
カツ子「はい」

カツ子、苦しみだす。

松原 「カツ子さん、しっかりして」

不安な音楽盛り上がり。
溶暗。


○和井内貞行の家
勝蔵、木戸から入ってくる。

勝蔵 「カツ子さん、カツ子さん」
カツ子「(奥の声)はい」
勝蔵 「薬を届けに来ました」
カツ子「どうもすみません」
勝蔵 「今日は寒いな」

身支度をしたカツ子が出てくる。

勝蔵 「あれ、豆腐を売りに行く気じゃ。よしなさい本調子じゃな
   いのに、この雪の中を」

寛太がやってくる。

寛太 「ごめんよ」
勝蔵 「おう、寛太」
寛太 「和井内さんは」
勝蔵 「まだだ」
寛太 「カツ子さんが倒れたっていうのに、まだ青森から戻ってこ
   ないのか」
カツ子「今日明日には帰ってくると思います」
寛太 「寝てなくて大丈夫なのか」
カツ子「はい」
勝蔵 「豆腐を売りに行くつもりなんだよ」
寛太 「なんだって、駄目だやめておけ」
カツ子「大丈夫です」
寛太 「医者に診てもらったのか」
カツ子「いいえ」
寛太 「勝蔵さん、今から俺が医者に連れて行く」
カツ子「いえ、大丈夫です」
寛太 「カツ子さん、あんたリュウマチだ」
勝蔵 「おい寛太、本当か」
寛太 「ああ間違いない、うちのお袋と一緒だ。微熱が続いて身体
   がだるくなって、関節が腫れ上がってその内真っ直ぐ歩け
   なくなるんだ。肺もやられて息苦しくなり、それで、その
   内死んじまうんだ」
カツ子「......そうですか」
寛太 「気づいていたのか」
カツ子「二人とも、主人には黙っていてください」
勝蔵 「しかし」
カツ子「いずれ私から言います」
寛太 「何でそこまでするんだ。亭主を支えるといっても限度って
   ものがあるだろう」
カツ子「十和田湖で魚がとれるようにするためです」
寛太 「もう十分だろう。そこまで貧乏して身体まで壊して。意地
   を張っているとしか思えない」
カツ子「意地なんかじゃありません。私たちには責任があります。
    十和田湖に魚を放して皆さんの生活を変えた責任が。です
    から最後までやり通さなければいならないんです」
勝蔵 「あなたの気持ちはよく分かるが無理はよくない。十和田湖
   で魚が捕れるようになればそれはありがたい。だから私も
   旦那を手伝っている。けれどあなたにもしものことがあっ
   たら...。カツ子さん、一度毛馬内に戻りませんか」
カツ子「勝蔵さん、ありがとうございます。でも私は本当に、この
    くらいのことじゃ死にません、大袈裟です。それに時期が
    来たらそうさせてもらうつもりです」
勝蔵 「本当にそれでいいんですか」
カツ子「はい」

貞行が戻ってくる。

貞行 「今帰った」
カツ子「お前さんお帰りなさい。青森で何か収穫がありましたか」
貞行 「あった、最後の切り札を見つけてきた」
カツ子「それは何です」
貞行 「カバチェッポと言う支笏湖のマスだ」
寛太 「聞いた事あるか」
勝蔵 「いや、ない」
貞行 「カバチェッポは元は阿寒湖のマスで十和田湖より深い支笏
   湖に養殖され捕獲も成功している。それに支笏湖と十和田
   湖は条件が似ているんです」

松原がやってくる。

松原 「和井内さん」
貞行 「松原さん。...その格好は」
松島 「長らくお世話になりましたが、東京に戻ることになりまし
   た。十和田湖の水産調査は、農商務省の下啓介さんが引き
   継がれると思います。今までありがとうございました」
貞行 「随分、急ですね」
松島 「色々ありまして、家庭の事情とかも。東北漁業組合はどう
   でしたか」
貞行 「松原さんのおかげで凄いマスを見つけました」
松島 「それはなんと言う」
貞行 「カバチェッポと言う支笏湖のマスです」
松原 「かわった名前ですね」
貞行 「このマスは降海型ではなく散在性もありません。湖内を回
   帰します。これなら十和田湖でうまくいくかもしれません。
   青森の水産試験場に相談したら養殖は有望だと言われまし
   た。それで水産試験場がカバチェッポの卵を二十万粒買い
   入れ、そのうちの五万粒を私が買い付けます。そのうえ釧
   路生まれの技師を派遣してくれるんです。その方が北海道
   から青森までカバチェッポの卵を運んでくださり、あとは
   私がここまで」
松原 「しかし、資金はどうするんですか」
貞行 「駆けずり回って何とかします」
松原 「出来るんですか」
貞行 「やるとも。カツ子」
カツ子「はい」
貞行 「これで最後だ、やらせてくれ」
カツ子「......」
貞行 「お前が大変な事は承知している。これがうまく行ってもあ
   と三、四年辛い思いをさせることになる」
寛太 「いい加減にしろよ。何度も何度も失敗して、そのたびにカ
   ツ子さんに苦労を背負わせて、他のやり方を考えたらどう
   なんだ。聞いているぞ、鹿角郡長からも養殖を中止しろと
   説得されてるんだろ、見込みがないんだよ」
貞行 「やってみなければ分からない」
寛太 「カツ子さんはな」
カツ子「寛太さん、それ以上はお節介です」

カツ子、痛みをこらえて立ち上がり、奥の間から包みを持って
くると貞行に渡す。
貞行、その包みを解く。

貞行 「お前の嫁入りの晴れ着。それに形見の櫛」
カツ子「資金の足しにしてください」
貞行 「すまない」

貞行、自分の衣類や懐中時計を取り出し同じ包みに入れる。

貞行 「行ってくる」
寛太 「どこに行くつもりだ」
貞行 「金に換えてきます」
松原 「和井内さん、青森行きを進めておいて何ですが、私も反対
   です。この雪の中、果たしてそのカバチェッポの卵を生き
   たまま、ここまで持って帰れるか疑問です。ただでさえ時
   間的に厳しいのに、北海道から冬の十和田湖までなんて無
   茶だ。卵が死んだら、そこで終わりなのですよ」
貞行 「そうかもしれませんが」
松原 「この辺りが引き際なんじゃないですか」
カツ子「お前さん、行ってください」
松原 「カツ子さん、何を言ってるんですか」
カツ子「きっとうまく行きます」
松原 「その可能性は低い」
寛太 「また駄目に決まってる」
カツ子「そうしたらまた次を考えます」
松原 「和井内さん、次はあるのでしょうか」
貞行 「......ないだろうな」
カツ子「どうしても駄目なら、二人で責任を取って首でも括りまし
    ょう」

松原、寛太、驚く。

貞行 「そうだな」
カツ子「はい」
貞行 「行ってくる」

包みを抱えて走り去る。
カツ子の思い入れがあり、溶暗。


○十和田湖湖畔(秋)

舞台正面、十和田湖。
辺りはうっそうとしたブナの森。
村人一、二、道子が出てくる。

村人一「ちくしょう、足がフラフラしやがる」
村人二「俺もだ」
村人一「この辺りも食べられそうなものはないか。しかし酷い飢饉
    だ。あちらこちらで飢え死にしているらしいぞ」
村人二「昨日、宇樽部でも死人が出たってさ」
道子 「長雨の上にこの低温。農作物は全滅、山には食べるものも
   ない。せめて十和田湖で魚が獲れたら」
村人二「無理だろう。一時期は鯉が獲れたが今じゃ産卵期に浅瀬に
    集まるのを獲るのが精一杯だ。マスは全くと言っていいほど獲れな  
    い。もうみんな諦めている。諦めてないのは和井内だけだ」
村人一「あれは頭がおかしくなっているぞ」
村人二「まったくだ」
道子 「無駄話はやめて、何でもいいから食べられるものを探しま
   しょう」
村人一「そうだな。俺たちは向こうをさがそうぜ」
道子 「私は銀山辺りをさがしてみる」

村人、歩いていく。

道子 「ああ、腹減った」

ゆるい音楽、IN
マスの着ぐるみを着た二人組、出てくる。

マス一「こんにちはマスです」
マス二「もと鯉です」
マス一「なんだよそれ。......それからですが和井内さんは大変な苦
    労をして無事カバチェッポの卵を十和田湖に持ち帰り、そ
    れから六か月かけてその卵を孵化させました。そして明治
    三十六年五月、必ず戻って来いと願いながらカバチェッポ
    の稚魚三万尾を十和田湖に放流しました」
マス二「ふーん」
マス一「ちなみにカバチェッポはアイヌ語です。一般的にはヒメマ
    スと呼ばれています」
道子 「あの、どちらさんです」
マス一「十和田湖のマスです」
道子 「ゆるキャラ?」
マス一「十和田湖のマスです」
道子 「なんにでもゆるキャラってあるんですね」
マス一「お前の演技力が足りないから、俺たちゆるキャラと勘違い
    されたぞ」
マス二「違います。あいつ馬鹿にしてます」
道子 「ダサいゆるキャラ」
マス二「ほら、放っておいていいんですか」
マス一「いいよ、いいから行こう」
マス二「でも、馬鹿にされたまま黙って引き下がるなんて」
マス一「ほら、早く水に戻らないと俺たち死んじゃうから。それに
    もう台詞がないんだ、この役は終わりだから」
マス二「なんだよそれ」

マス一、帰っていく。
マス二、後を追う。

道子 「飢饉になると変な人が出てくるな。気をつけよう」

村人一、二戻ってくる。

村人二「おい、そっちには何かあったか」
道子 「ないです」
村人二「こっちはなにもない。俺たちも銀山に行く」

村人二、魚見梯子で乞食同然の貞行を見つける。

村人二「あれ和井内か。あそこで何やっているんだ」
村人一「ああやって毎日、マスが帰ってこないか湖面を見張ってい
    るのさ」
村人二「毎日」
村人一「そう。カツ子さんを働かせて自分は毎日あの調子さ。頭が
    おかしくなったんだよ」
村人二「大飢饉の上に、日本はロシアに宣戦布告して大変なご時世
    だというのに」
村人一「少しからかってやるか」
村人二「だな」
道子 「そんなことしている暇ないでしょう」
村人一「冗談だよ。おい、行こうぜ」
村人二「そうだな」

二人、走り去る。

道子 「和井内さん、毎日せいが出ますね」
貞行 「ああ道子さん、お久しぶり」
道子 「どうですマスは」
貞行 「カバチェッポの稚魚を放流してまる三年ですから、そろそ
   ろ戻ってくると思います」
道子 「本当に戻ってくるんですか」
貞行 「わたしは信じています」
道子 「諦めが悪いんですね」
貞行 「それだけが取り柄ですから。あの道子さん」
道子 「何です」
貞行 「松吉さんが倒れたって聞きましたが、大丈夫ですか」
道子 「この飢饉で食べるものがなくて具合が。でも大したことあ
   りません」
貞行 「そうですか、お大事にと伝えてください」
道子 「ありがとうございます、伝えておきます」

道子、去っていく。

貞行 「(溜息)......腹へったな」

寛太が血相を変えて走ってくる。

寛太 「和井内さん。松吉さんの娘を見なかったか」
貞行 「道子さんは今までここにいましたよ」
寛太 「もう一度見かけたら、すぐ家に戻るよう伝えてくれ」
貞行 「どうかしましたか」
寛太 「松吉さんが」
貞行 「えッ」
寛太 「身体が弱っていたところに、この飢饉で」
貞行 「まだその辺にいるはずだ、道子さん、道子さん」
寛太 「道子ッ」
道子、戻ってくる。
道子 「寛太さん」
寛太 「さがしたぞ」
道子 「どうしたんですか血相変えて」
寛太 「すぐに家に帰れ」
道子 「何かあったのですか」
寛太 「松吉さんの様子が」
道子 「えッ」
寛太 「急げ」

道子、慌てて帰っていく。
寛太、後を追う。
貞行、梯子を下りてくる。

貞行 「松吉さんが......。何も変わってない昔のままだ。わたしに
   は助けることが出来ないのか」

呆然とする貞行。
勝蔵が出てくる。

勝蔵 「旦那、松吉さんが」
貞行 「いま寛太さんから聞いた」
勝蔵 「それで松吉さんが旦那に会いたい、一言伝えたいことがあ
   るそうです。旦那、参りましょう」
貞行 「合わせる顔がありません」
勝蔵 「どうしてです」
貞行 「松吉さんの倅が冬場の食糧難が原因で亡くなった事が、わ
   たしがこの事業をやらなければならないと決意したきっか
   けでした。それは松吉さんもご存知だ。その松吉さんにど
   んな顔をして会えばいいのか分かりません」
勝蔵 「旦那は誰よりも十和田湖の事を考え苦労してきた。それは
   松吉さんも分かってくれてます」
貞行 「しかし......」
勝蔵 「旦那、参りましょう」

魚の跳ねる音がする。

貞行 「勝蔵さん、聞こえましたか」
勝蔵 「今のは魚の跳ねる音ですか」

その音は重なり合い、辺りに響き渡る。

貞行 「戻ってきたのか」

貞行、勝蔵はしごを駆け上がる。

貞行 「間違いないカバチェッポだ、カバチェッポが帰ってきた」
勝蔵 「本当だ」
貞行 「ほら、あんなにたくさん」
勝蔵 「カバチェッポだ。凄いな、何百、いや何千尾といるぞ。群
   れを成して岸に向かって泳いでくる」
貞行 「あれもか」
勝蔵 「そうです」
貞行 「あれもそうか」
勝蔵 「そうです。旦那、とうとうやりましたよ」
貞行 「ついに戻ってきた」

梯子をおりると二人は抱き合い喜ぶ。

勝蔵 「戻ってきました。これで長年の夢が叶いましたね」
貞行 「この事を松吉さんに伝えてあげましょう」
勝蔵 「旦那はこのことをカツ子さんに伝えてあげてください」
貞行 「でも」
勝蔵 「早く。すぐそこじゃないですか」
貞行 「分かりました。カツ子を連れてきます」

貞行、花道を駆けていく。

勝蔵 「これでカツ子さんの病も吹き飛ぶぞ」

舞台、暗くなる。

勝蔵 「俺は松吉さんに知らせてやろう」
松吉 「勝蔵さん、ついに帰ってきましたか」
勝蔵 「(振り返り驚く)」

いつの間にか松吉が立っている。

勝蔵 「ま、松吉さん。あんた......」
松吉 「(頷き)よかったな、カバチェッポが戻ってきて」
勝蔵 「はい」
松吉 「養魚を始めて何年だったかな」
勝蔵 「初めて鯉を放したのが明治十七年。今年で二十一年目です」
松吉 「そんなになるか」
勝蔵 「長かったです」
松吉 「諦めず苦労したかいがありましたね。これで、多くの人が
   救われる」
勝蔵 「松吉さん、カバチェッポがもう少し早く戻ってきてくれて
   いたら、あなたは」
松吉 「私は寿命ですよ。ほら、二人が来たぞ」

貞行、カツ子、走ってくる。

貞行 「さあカツ子」
勝蔵 「カツ子さん」
貞行 「呼んできたよ」

カツ子、足元が絡み転ぶ。

貞行 「大丈夫か」
カツ子「はい、何でもありません。どこですか」
貞行 「こっちだ、あの湖面を見てくれカバチェッポだ」

ここでプロジェクターなどがあれば、遡上するカバチェッポ
の動画を舞台に投影。

カツ子「すごい、あんなに沢山」
貞行 「戻ってきたんだ」
カツ子「戻ってきましたね」
貞行 「良かった、本当に良かった」
カツ子「はい」

二人、抱き合って喜ぶ。
その姿を見つめる松吉。

松吉 「和井内さん、これからも十和田湖をお頼いします」

松吉、微笑んで消える。

勝蔵 「お二人ともおめでとうございます」
貞行 「勝蔵さんや青森漁業組合、皆さんのおかげです」
勝蔵 「いや、お二人の忍耐と根気がこの成功を呼び込んだんです。
   松吉さんも喜んでいますよ」
貞行 「勝蔵さん、松吉さんのところに行きます。戻ってきたこと
   を伝えましょう」
勝蔵 「松吉さんにカバチェッポを届けましょう」
貞行 「しかし急いだほうが」
カツ子「松吉さん、どうかしましたか」
貞行 「具合が悪くなったみたいだ。それでわたしに何か話がある
   らしいが」
カツ子「わたしも参ります」
勝蔵 「待ってください旦那、松吉さんにカバチェッポを届けまし
   ょう。そして十和田湖の未来を聞かせてあげてください。
   松吉さんはきっとそれを望んでいます」
貞行 「十和田湖の未来」
勝蔵 「そうです、カバチェッポを見せて天空の湖と呼ばれる十和
   田湖の明日を、旦那の口から話してあげてください」
貞行 「勝蔵さん......」
勝蔵 「御願いします、そうしてあげてください」
貞行 「......分かりました。勝蔵さん、網だ、船をだしてくれ。カ
   バチェッポを松吉さんに届けます」
勝蔵 「やりましょう」
貞行 「カツ子も手伝ってくれ」
カツ子「はい」

勝蔵、走り去る。
カツ子、足の痛みに蹲る。

貞行 「どうした」
カツ子「いえ」
貞行 「大丈夫か」

カツ子は立ち上がれない。

貞行 「お前、その足」
カツ子「......」
貞行 「こんなになるまで、なぜ黙っていた」
カツ子「迷惑をかけたくありませんでした」
貞行 「馬鹿者な事を」
カツ子「すみません」
貞行 「......今まですまなかった。ともかく私の背中に」

貞行、カツ子を背負う。

カツ子「お前さん、お願いがあります」
貞行  「どうした」
カツ子「村の人たちに、自由にカバチェッポを獲らせてあげてくだ
    さい」

湖面を跳ねるカバチェッポの音が響く。

カツ子「山の者は皆家族です。カバチェッポで助けてください」
貞行 「よし、そうするか」

音楽、IN。圧倒的に盛り上がり、溶暗。


○小坂駅
ホームに汽車が到着し、駅から松原が出てくる。

松原 「ええと、確か改札で待っていると。いないなぁ」

松原、うろうろしている。
寛太がやってくる。

松原 「寛太さん、ここです」
寛太 「おお」
松原 「すみません、汽車が遅くなりまして」
寛太 「俺も今来たところだ」
松原 「電報を頂いて飛んできましたが、カツ子さんの様態は」
寛太 「よくない。意識はあるんだが予断の出来ない状態だ」
松原 「...ともかく行きましょう、どちらの病院ですか」
寛太 「入院してない。今も観湖楼にいる」
松原 「どうしてです」
寛太 「本人が頑として動かないんだ。死ぬなら、十和田湖で死に
   たいって」
松原 「そんな......」
寛太 「行こう、早く行かないと」
松原 「分かりました」

二人、はける。
溶暗。


○和井内貞行の家(観湖楼)
部屋に行燈や屏風など。
布団がひかれカツ子が寝ている。
枕元には水差しや水桶。
貞行、カツ子の傍に座っている。
勝蔵は沈痛な面持ちで框に座っている。
寛太と松原が来る。

勝蔵 「旦那、松原さんがお見えになりました」
貞行 「入れてください」

松原、寛太入ってくる。

貞行 「松原さん、お会いしとうございました」
松原 「和井内マスの成功、おめでとうございます」
貞行 「松原さんがいなければ、この成功はありませんでした」
松原 「いえ、お二人の努力の賜物です」
貞行 「ちょっとお待ちを。......カツ子、松原さんがお見えになっ
   たよ」
カツ子「......はい」
松原 「カツ子さん、お久しぶりです」
カツ子「(力なく)お変わりありませんね」
松原 「はい、何とか」
貞行 「おあがりください」

貞行、入れ替わり土間に下りる。

寛太 「和井内さん」
貞行 「......」

三人、外に出る。

寛太 「カツ子さんの容態は」
貞行 「よくない」
寛太 「ちくしょう」
勝蔵 「......」
寛太 「村の者が言っていた、カツ子さんはまるで神様だって。酷
   い事を言っていた村の者に、ようやく獲れたマスをすべて
   分け与えて村を救った。自分も苦しいのに、村の者が通り
   かかると、必ず声をかけて飯を食わせてくれた。それから
   まだ沢山ある。......そんな人が、そう簡単に死んでたまる
   か。そうだろ勝蔵さん」
勝蔵 「ああ、そうだ」

松原が出てくる。

貞行 「もう宜しいのですか」
松原 「すみません。言葉が見つからなくって」
貞行 「いいんですよ」

一同、中に。

寛太 「カツ子さん」

寛太、カツ子の傍に

松原 「何とかならないのですか」
勝蔵 「出来る限りのことはしました。あとは祈るしか...」
松原 「和井内さん、教えてください」
貞行 「何をです」
松原 「どうしてここまで出来るのですか。そりゃ人のためと言う
   のは分かりますよ。しかし、凡人の私には何か理解できな
   いところがあります」
貞行 「私とカツ子は、十和田湖に魅入られたのです。そうとしか
   言いようがありません」
寛太 「和井内さん、カツ子さんが」

貞行、慌ててカツ子のそばに。

貞行 「カツ子、しっかりしろ」
カツ子「水をください」

貞行、カツ子を起こす。

勝蔵 「二人っきりにしてあげましょう」

松原、寛太、勝蔵出て行く。

貞行  「(水を飲まし)カツ子、しっかりしておくれ」
カツ子「そんな顔しないでください」
貞行  「カツ子」
カツ子「ごめんなさい」
貞行  「諦めるなんてお前らしくない。カツ子、覚えているか、初
    めて二人で見た十和田湖を」
カツ子「はい、今でもはっきりと」
貞行  「天空の青を映す静寂の水面がとても神秘的で、飽きること
    なく二人で眺めていたな」
カツ子「はい」
貞行 「あの綺麗な湖に魚がいないのは不思議ですねと、カツ子が
   言った言葉からすべてが始まった。まだ終わりじゃない、
   私のそばにいておくれ」

カバチェッポの跳ねる音、聞こえる。

カツ子「今年もカバチェッポ、戻ってきますよね」
貞行  「ああ、帰ってくる」
カツ子「来年も再来年も、ずっと戻ってきますよね」
貞行  「戻ってくるとも」
カツ子「なら私は、これからも十和田湖にいます」
貞行  「そうか」
カツ子「そばにいます」
貞行  「分かった」

カツ子、貞行の顔を触ると静かに息を引き取る。

貞行 「カツ子」

音楽、IN。
圧倒的に盛り上がる。
勝蔵たち、貞行の泣き声でカツ子の死を知る。
それぞれの表情のなか照明F・OUT。
貞行とカツ子に照明残り。
幕。


○十和田湖湖畔

ブナの森が開けたところに青い十和田湖が見える。
鳥の声。
村人一、二が歩いてくる。

村人一「宇樽部の放牧もずいぶんうまくいくようになったな」
村人二「まったくだ。おかげで俺たちも大忙しだ」
村人一「放牧もカツ子さんの案だもんな」
村人二「だな。......惜しい人を亡くした」
村人一「お前の倅、体調はどうだ」
村人二「カバチェッポのおかげでよくなったよ。栄養満点だし、何
    より現金収入があるから医者にも診せられた。これもカツ
    子さんと和井内さんのおかげだ」
村人一「本当だな。和井内さん、カバチェッポの成功で国から表彰
    されるらしいぞ」
村人二「そうなのか、いつのことだ」
村人一「今日だとさ」
村人二「よかったな」

寛太、やってくる。

寛太 「お前たち和井内さんを見かけなかったか」
村人一「見てない。今日緑綬褒章を受けるんだから役所だろう」
寛太 「その後いなくなってしまったんだ。大事な話があるんだ、
   すまないが一緒に捜してくれるか」
村人二「あの話をするのか」
寛太  「めでたいついでだ。今日話をするのがいいんじゃないかと
    思ってな」
村人一「そうだな」
村人二「手伝おう」

三人、はける。
燕尾服の貞行、花道より。
しばらく湖畔にたたずむと、緑綬褒章を取り出す。

貞行 「あと十日早ければ、カツ子も喜んだろうに」

三人が貞行を見つけて戻ってくる。

寛太 「和井内さん」
貞行 「(帽子を取り一礼)」
村人 「和井内さん、おめでとうございます」
貞行 「ありがとうございます」
寛太 「役所で褒章を受け取った後、祝賀会に出ずに帰られたそう
   ですね」
貞行 「早くカツ子に知らせたくて。何か用事でしたか」
寛太 「実はカツ子さんのお墓を十和田湖が見下ろせる丘に造らせ
   てもらえないか。そして湖畔にカツ子さんを祭る神社を造
   らせてほしい。これは村の者みんなの希望なんだ」
貞行 「神社をですか」
寛太 「皆の命が救われたんだ」
貞行 「しかし神様みたいに祭るのは」
寛太 「二人は俺たちの神様みたいなものだ。村の者はそう思って
   いる、このとおりだ」
貞行 「困ったな、そんな大げさなとこは」
寛太 「断らないでくれよ。こいつは俺たちなりに考えた恩返しな
   んだ、だから和井内さん、頼むから受けてくれ」
村人一「御願いします」
村人二「このとおり」
貞行 「分かりました。それではよろしくお願いします」
寛太 「ありがとう。おい、村の者に知らせようぜ」
二人 「みんな喜ぶぞ」
貞行 「あ、寛太さんひとつだけ。その神社の名前に、カツ子のカ
   ツの字を使っていただいてもかまいませんか」
寛太 「はい」

寛太、村人はける。
虫の声。

貞行 「神様みたいなものか。神社の話しをカツ子が聞いたら何と
   いうだろう。きっと丁重にお断りしてくださいと言うだろ
   うな。なのになぜ受けてしまったのか......」

貞行、十和田湖を見つめる。

貞行 「神様だなんてとんでもない、わたしたちはただ諦めが悪か
   っただけのことだ。......いや違うそうじゃない、わたしひ
   とりでは到底なしえなかった。何度も何度も折れかかった
   わたしの心をカツ子が支えてくれたからここまで出来た。
   でなければとっくの昔にわたしは挫折していた。カバチェ
   ッポの成功は、諦めずに支え続けたカツ子の強い魂が呼び
   込んだ奇跡にほかならない。村の人たちはとっくにそれに
   気づいている」

再び褒章を取り出す。

貞行 「カツの字を使ってくれと思わず口にしたのは、後世カツ子
   を忘れて欲しくないからだ。そしてお前の成し得た事に、
   わたしは村の者たちと賞賛したい、だから受けたのだ...
   ...カツ子聞いているか、この褒章はお前にこそ相応しい」

カバチェッポのはねる音。
舞台暗くなる。
幻のようにカツ子が現れる。

貞行  「会いたかったよ、カツ子」
カツ子「お前さん、おめでとう。あなたの努力が認められたのです
    ね」
貞行  「お前がいてくれたおかげだ」
カツ子「私はささえただけ」
貞行  「それが力になった。カツ子、これはお前の褒章だ」
カツ子「ありがとう、でも、それは貴方の物よ」
貞行  「カツ子、どこへも行かず私のそばにいてくれ」
カツ子「カバチェッポが帰ってくる限り、私はこの十和田湖にいま
    す」
貞行  「ならば私もそうしよう」

音楽・イン

カツ子「天空の湖に魚影があるかぎり」
貞行  「二人は、十和田湖に居続けよう」

舞台一面に遡上するカバチェッポの姿。
上下から松吉、勝蔵、松原、寛太現れ。
音楽、圧倒的に盛り上がり。
幕。
終演。

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