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郭公(ほととぎす)の伝言

 
 
 
 
 

 
登場人物
 
日柳(くさなぎ)燕石(えんせき)    金比羅の侠客・勤王派・詩人
 
高杉晋作    長州の勤王の志士
 
高洲久子(お久) 燕石の下女・元野山獄女囚
 
おのう     高杉の妾・下関の芸者
 
坂手十左衛門  高松藩町奉行
 
竹庵      医者
 
長府藩士
 
坂手の手下
 
 
 

慶応元年(一八六五年)夜。四国、讃岐
 
  闇夜を高杉とおうのが逃げる。追う侍複数。侍たちは高杉に斬りかかる。
 
高杉(声) 先生、私は讃岐にいます。攘夷派、幕府に追われながらこの地に赴いたのは、先生との約束をはたすためです>。
 
高杉と侍たちは激しく斬りあう。
 
高杉(声) 先生があの告白をされた時、正直面食らいました。処刑前に先生が書いた留(りゅう)魂(こん)録(ろく)冒頭の句「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂」男子の死ぬべき時はいつかの問いに「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」と答えた先生と、あの告白があまりにもかけ離れていたからです。先生の死後、私は先生の言葉に後押しされ功山寺で挙兵し、正義派は俗論派に勝利しましたが、私はまた追われる身です。女を連れてきたのは、今頃になってあの時の先生のお気持ちが、私なりに分かってきたからです。先生必ず伝えます、先生の大事なお人に、先生から託された郭公の伝言を。
 
高杉、隙を見つけて、おうのを連れて闇に消える。侍たちが追う。
 
侍一   高杉が崖から落ちたぞ、逃がすなッ。
 
  暗転。
 
 
 
 
 
 
翌日、日柳燕石の家。
 
医者の竹庵がいる。下女のお久が戻ってくる。
 
お久  先生一人ですか、親分さんは。
竹庵  厠です。お久さん、昨夜親分に何を食べさせました。腹痛の原因は食あたりです。
お久  昨夜、親分が懇意にされている町奉行坂手様がお越しになられ天婦羅を出しました。
竹庵  古くなった物を使いませんでしたか。
お久  とくには。
竹庵  原因を知りたいので詳しく教えてください。
お久  まだ残ってます、持ってきます。
 
お久、奥に行く。
燕石、出てくる。
 
燕石  腹の痛みが治まった。
竹庵  薬を飲んだので心配ありませんが、今日明日は消化のよい物を。
燕石  心得ました。
 
  お久、食材を笊ごと持ってくる。
 
お久  先生、これです。
竹庵  山菜ですか。
お久  あと蓮根と長芋です。
竹庵  これ大笑い茸じゃありませんか。笑いが止まらなくなる毒キノコですよ。
お久  生で食べても笑って陽気になるだけです。それに水に晒して毒抜きがしてあります。私もいただきました。
竹庵  あなたが丈夫なだけでしょう。
お久  そんなことありません。
竹庵  いいですか、諸国の志士に名を知られ、讃岐一の侠客燕石親分を頼りに訪れる勤王家は大勢います。
おひさ 勤王家を支援されているとか。
竹庵  その通り。ですから親分が病になると困る人がでます。私も勤王家の端くれですが、私は医者として親分を健康管理を……。
お久  東北は保存食として食べてますが。
竹庵  医者の支持にしたがいましょう。
お久  はい。
燕石  先生、賭場は譲って博徒は廃業した。いまの私は詩を嗜むただの勤王家です。
竹庵  辞めなくてもよろしかったのでは。差し当たり親分を慕う子分は沢山います。
燕石  勤王博徒でなく純然たる勤王家になるためだ。ああ、それからお久も一応勤王家だ。
竹庵  女がですか。
燕石  これからは性別身分に関係ない世をつくらなければならない。松陰先生もそう仰っている。
お久  寅次郎先生はメリケンを見習うべきだと。
竹庵  寅次郎先生。
燕石  松蔭は文人が好んで使う号だ。名や字以外に人を呼ぶ際に使われる称号で、通称は寅次郎。お久は松蔭先生から学問を教わっていた。ところで御客人は。
お久  それが二人ともいませんでした。
燕石  どういうことだ。
お久  大芝居小屋の近くですから、芝居を見にいかれたのでは。
燕石  金比羅参りの旅人、博打ちや遊び人が絶えず出入りしているので人目につきにくいが、町奉行もうるさくなっている。昨夜坂手様がお越しになったとき、藩は幕府に仇なす長州の浪人を追っているといわれた。
竹庵  また誰かを匿っておられるのですか。 
燕石  何でもありません。
竹庵  無用な詮索はいたしません。お久さん、大笑い茸は捨ててくださいね。
お久  美味しいのに。
竹庵  駄目です。
 
  竹庵、診察道具を持ち帰ろうとする。
  おうのが現れる。
 
おうの 燕石様は。
竹庵  ご在宅ですが。どうなさいました、怪我をされておいでだが。
燕石  おうのさん、今までどこに。
おうの 晋作様が。
燕石  なにがありました。
おうの 襲われました。
燕石  高杉さんはどこに。
おうの すぐそこに。怪我をしています。
燕石  先生、手伝ってくれ。
竹庵  はい。お久さん布団を。
 
  燕石と竹庵、おうのに続きハケ。
  お久は布団をひく。
  燕石と竹庵、高杉を抱えて出。おうの、後に続く。二人は高杉を布団に寝かせる。
 
燕石  高杉さん、しっかりなさい。
竹庵  気を失いました。
 
  竹庵、手当てをする。
 
燕石  金山寺町の隠れ家が僅か三日でバレるとは考えが甘かった。
おうの いえ、晋作様が出歩いたからです。
燕石  身の安全のため、外出は控えてくれと申したではありませんか。
おうの すみません、危険だと止めたのですが晋作様は聞き入れてくれませんでした。
竹庵  この方は長州の高杉晋作殿ですか。
燕石  そうだ。下関開港を推し進め攘夷派や長府藩士の恨みを買い命を狙われている。それに尊攘、倒幕派を探索する幕府からも追われている。難を逃れるため瀬戸内を渡り、三日前に私を頼って金比羅を訪れた。
竹庵  そんな状況とは。はじめて知りました。
燕石  具合は.。
竹庵  怪我はたいしたことありません。しかし頭を打って脳震盪を起してます。
おうの 逃げる途中に足を踏み外して崖を落ちました。そのときに私を庇って。
竹庵  大丈夫すぐ気がつくでしょう。しかし、朦朧とする頭でよくここまで。
燕石  無事でよかった。とはいえ、こうなるとここも安全だとはいえない。早い内に別のところに移るか讃岐を出たほうがいい。不安はありましょうが、この地に来た限り燕石が命に代えてお守りします。
おうの ありがとうございます。なれど晋作様は讃岐から出るのを承知するでしようか。吉田松陰先生に頼まれて人を捜していると申しましたから。
燕石  松蔭先生に。
おうの はい。
燕石  どこの誰です、私が捜しましょう。
おうの 詳しく話してくれないので私は知りません。でも捜しているのは女じゃないかって。
燕石  女。
おうの これは私の感ですが。
燕石  兎も角、目がさめれば聞けばいいことです。
おうの はい。……なにか気付け薬をいただけませんか、今頃になって怖くなってきました、震えが。
燕石  酒でよろしければ。
おうの それで結構です。
燕石  わかりました、お久。
 
  お久、台所にいく。
 
竹庵  傷の手当を。
 
  お久、酒を運んでくる。
  おうの、手当てされながら酒を飲む。
 
おうの 落ちついてきました。
竹庵  旦那様が凄いお人だと、奥方様は苦労なさいますね。
おうの 私は妾です。
竹庵  あ、失礼しました。
おうの 男女が結ばるは人の大倫だと、孟子という偉い学者がいっている。そう高杉から聞きました。なので惚れてしまえば仕方ありません。
燕石  孟子ですか。たしかお久は松蔭先生に孟子の講義を受けたといわなかったか。
お久  受けました、あの。
燕石  どうした。
お久  そこだけだと意味が違います。
燕石  孟子曰く、告ぐれば則ち娶るを得ず、男女室に居るは人の大倫なり。もし告ぐれば則ち人の大倫を廃し、以って父母を恨む。是を以って告げざりしなり。
竹庵  勉強不足で私には意味が。
燕石  夫婦になるのは人の大倫であるから、親が反対しても娶ってよい、という意味だ。
竹庵  なるほど、たしかに解釈が。
お久  告げずして娶るは父子の大倫を廃するなり、何ぞただ男女室に居るの大倫を廃するのみならんや。
燕石  それは。
お久  孟子のその篇にたいして寅次郎先生が。
竹庵  どういう意味です。
燕石  男女の大倫より父子の大倫が優先するという意味だ。松蔭先生らしい。
おうの 解釈はどうでもいい。晋作様がそう教えてくれた。信じたから私はここまでついてきた。
お久  でも寅次郎先生がなんと仰るか。
おうの 寅次郎って。
竹庵  吉田松蔭先生のことです。
おうの 松蔭先生はわかってくださいます。
お久  邪淫してしらぬ顔して他人に対し守節の美婦を誇るとも、鬼神其れ之れをゆるさんや。
おうの なにそれ。
お久  寅次郎先生の言葉です。先生は不貞を嫌っておられました。松下村塾の四天王と呼ばれた高杉様が、先生の教えを守らずに……。
おうの 余計なお世話よ。
燕石  なにをムキになっている。
お久  出すぎました、すみません。
 
  高杉、気がつく。
 
高杉  ここは。
竹庵  気がつきましたか。
高杉  頭がズキズキする。どこです。
燕石  私の家だ安心して養生してくれ。あとのことは私が何とかする。
高杉  あなたは。
燕石  日柳燕石だが。
高杉  私はなぜあなたの家に。
燕石  え?
おうの 私たちは追っ手に襲われて崖下に転げ落ち、命からがら燕石様のところに逃げてきたのです。
高杉  ここは長州ではないのか。
おうの 四国の讃岐です。
高杉  なぜ私が讃岐に。
おうの どうしたんです?
竹庵  覚えてないのですか。あなたは攘夷派や長府藩士に追われ日柳燕石殿を頼って金比羅に来ました。そして昨夜、何者かに襲われ逃げてきたのです。
高杉  覚えてません。
燕石  どういうことだ。
竹庵  記憶を失っています。
燕石  本当なのか。
竹庵  頭に強い衝撃を受けると記憶を失うことがまれですがあります。
高杉  私がなぜ長府藩士に追われているのです。
燕石  下関開港を企てたからです。
高杉  私は攘夷派だ、そんなことは。
燕石  討幕の為に必要だからだとあなたは仰いましたが、それも覚えてない?
高杉  はい。
おうの 晋作様、しっかりしてください。
高杉  あんたは。
おうの おうのです、私を忘れたのですか。
高杉  すまん。
おうの 嘘です。昨夜のことがあるので私を遠ざけようとされているのですね。私は平気です。どこまでもご一緒いたします。
高杉  ちがう本当に覚えてない。あんたのことも、なにがあったのかも。
竹庵  おうのさん、高杉殿は本当に記憶を。
燕石  いつ直るんだ。
竹庵  分かりません。すぐ直るかもしれないし、何年もかかることがあります。
おうの 私が思い出させます。おうのです、下関で芸者をしていました。晋作様は私を身請けして下関から呼び寄せてくれました。
高杉  あんたを身請け、下関から呼び寄せた。
おうの そうです。
高杉  つまり、妾。
おうの (頷く)
高杉  私には妻がいる偽りを申すな。
おうの 嘘じゃありません。
高杉  私は松陰先生の弟子だ。女房を娶ったのに不埒なことをしては先生に顔向けができない。
おうの 私は妾じゃなくワイフなんでしょう。エゲレスの言葉で嫁だ。妻はいるがワイフはお前だと仰ったじゃありませんか。
高杉  そんな歯の浮くようなことを私が。
おうの はい。
高杉  嫁も妻も同じゃないか、なにをいっている。
おうの あなたがいったです。
竹庵  落ち着きましょう。今から頭痛の薬を取って来ます。もしかしたら効くかもしれない。
燕石  そうしてくれ。
 
  竹庵、出て行く。
 
高杉  迷惑はかけられません(立ち上がる)。
燕石  あなたは松蔭先生から頼まれて人を捜しているそうだが、それも覚えてませんか。
高杉  私が先生から。
 
  高杉、頭を抱える。
 
燕石  横になったほうがいい。ここも安全ではないが、あてもなく出歩くのは危険だ。
高杉  されど(頭が痛い)。
燕石  私はあなたを守ると約束した、ここにいてください。
高杉  わかりました。
 
  竹庵、戻ってくる。
 
竹庵  燕石殿、町奉行の坂手様が。
燕石  まずいな。坂手様は私が高杉さんと関りがあるんじゃないかと疑い昨日様子を見に来たんだ。
竹庵  昨夜の騒ぎは耳に入っているでしょう、今日は様子見で済まないかも。
燕石  お久、高杉さんを厠に隠せ。
お久  そんなところに。
燕石  厠は敷地の外だ。坂手様は部屋を一通り検めれば帰るだろう。早く。
 
お久  はい、こちらです。
 
  お久、高杉を連れていく。
  坂手、手下と出る。
 
坂手  燕石。
燕石  これは坂手様、昨日の今日で如何なさいました。なにかございましたでしょうか。
坂手  昨夜市中で斬り合いがあり、それがかねてよりの幕府手配、高杉晋作であると知れた。そなたは桂小五郎並びに勤王派を匿った前科がある。家屋を検めさせていただく。
燕石  承知いたしました。
坂手  調べろ。
 
  手下たち、家の中を調べる。
  お久がもどってくる。
  手下たちも戻ってくる。
 
坂手  どうだ。
手下  おりません。
坂手  お前たちは他を当たれ。憹は燕石に用がある。
 
  手下たち、去る。
 
坂手  その女は。
燕石  私の遠縁で萩から金比羅参りに来たうのと申します。
坂手  それはご苦労だ、手形を見せてもらう。
おうの !。
坂手  だがその前に厠を貸してくれ。昨夜から腹が痛くてな。
燕石  え、もしかして。
坂手  まさかお主もか。二人で何かに当たったか。
燕石  難儀をかけました、お使いください。
坂手  かたじけない。
燕石  駄目、やっぱり駄目。今壊れてます。
坂手  ええ。
 
  坂手の手下、戻ってくる。
 
手下  坂手様、手配の浪人と思しき男が内町の旅籠に。すぐお越しください。
坂手  今はまずい。
手下  しかし我々だけでは。
坂手  仕方ない。手形は後で検めるぞ。
 
  坂手と手下、去る。
 
燕石  やりすごしたが安心出来ない。すぐ讃岐を出る手配を整えよう。
高杉  (戻ってきて)私はここを離れません。
燕石  捕縛されるか、また襲われるかもしれない。
高杉  何かしなきゃいけない、私はそのためにここに来たんだ。なのに思い出せない。
燕石  慌てなくてもその内思い出します。お久、奥の間で高杉さんを休ませてくれ。
お久  はい。
 
  お久、高杉を連れていく。
 
燕石  どうしたものか。
竹庵  記憶が戻るのを待っている暇などありません。
燕石  しかし本人が。
竹庵  今すぐ戻る保障はありません、だったら安全策をとるべきです。記憶が戻ってやるべきことがわかれば、また来ればいい。
おうの 簡単にまいりません。晋作様があの調子ではやがて捕らえられてしまう。そうなればここに戻ることは二度と。
燕石  先生、なんとか方法はないのですか。
竹庵  強い衝撃をもう一度与えれば記憶が蘇ると聞いた事がありますが。
おうの 崖から突き落とすのですか。
竹庵  そこまでは。殴るとか。
燕石  怪我人の頭を殴るのか。それで酷くなったら取り返しがつかないぞ。
竹庵  かわりに精神的刺激を与えれば。
燕石  成程、しかしどうすれば。
竹庵  身近な人が心を揺さぶれば効果が期待できます。
おうの ……私なりに晋作様の心に訴えましたが。
竹庵  ワイフでしたか。駄目でしたね。
おうの まあ。
お久  (戻ってくる)寅次郎先生が高杉様の前に現れれば思い出すかも。
竹庵  それ名案です。
燕石  松陰先生は何年も前に死罪だ。幽霊にお越しいただくとでもいうのか。
お久  誰かが振りをすれば。
竹庵  そりゃいい。松蔭先生の幽霊になりすまし刺激を与えれば思い出すかもしれません。
燕石  そんな事でうまくいくのか。
竹庵  やってみる価値はあります。誰かを松蔭先生の幽霊に仕立てましょう。親分ならどんな方かご存知でしょう。
燕石  会った事がないので、どんな風貌の方か分からないが、お久なら。
お久  知ってます。
竹庵  でしたらお久さん、子分衆の面通しをして、松陰先生に似ている人を選んでください。
お久  竹庵先生が似ています。
竹庵  私が?
お久  歳もそのくらいで、お顔だちも似ています。
燕石  決まりだ。まもなく日が暮れる、それまでに幽霊にしよう。お久が指導をしてくれ。
竹庵  私は、その……
おうの 名案なんでしょう。
 
  燕石、中央に竹庵を立たせる。
 
燕石  お久、松蔭先生について教えてくれ。
竹庵  私は松陰先生のような立派な学者ではありませんので、無理があるかと。
燕石  中身は問題ない外見だけだ。
竹庵  そんな。
お久  寅次郎先生は、着物はよれよれで薄汚れ、髷は崩れてぼさぼさ、とても汚らしい格好でございました。
燕石  なるほど。
 
  燕石とおうの、お久の証言を参考に竹庵の外見を作り出す。
 
お久  獄舎の裏庭は人が訪れず荒れていましたが、そこで風に吹かれながら青く澄んだ秋空を見上げるのが、その頃の私の楽しみでございました。あの日、高い土塀のそばに立つ秋枯れの木々の枝が空にそよぐ穏やかな情景の中に、見知らぬ若い侍が天を仰いで立っておりました。新しい囚人がくると聞いていたので、挨拶されると煩わしく思え房に帰ろうとしますと、枯れ草を踏む音がして高洲久子さんですねと、上ずった甲高い声が後ろからしたのです。それがどこかおかしくて思わず振り返りますと、お侍は袴を引き上げ駆けてまいりました。そのお姿が先程いったように、お世辞にも綺麗とはいえない風貌でした。
 
  二人は松蔭を製作中。
 
おうの なぜそんな所に。獄舎の差し入れ屋で働いていたのですか。
お久  いえ。
おうの まさか囚人だったとか。
燕石  よさないか。
お久  隠すつもりはありません。私は野山獄十二人の囚人の中で、たった一人の女囚でした。
おうの え!
燕石  その話はいいだろう。(竹庵を見て)こんな感じでどうた。
お久  汚らしさは似ていますが、あっ、顔に痘痕がありました。
燕石  なるほど。
 
  燕石、竹庵に痘痕を足していく。
 
お久  顔も頭も薄汚れ酷いなりでしたが不思議と不潔な感じがなく、見開いた目は空と同じでどこまでも澄んでおりました。久子さんと、そのお侍はもう一度私を呼びました。陰気な獄舎にはない若やいだその声に顔が赤くなった気がして、私は軽く会釈をすると、その場を小走りで後にしました。
 
  徐々に竹庵が松蔭になっていく。
 
おうの 幽霊だからもう少し顔色を悪くしたら。
燕石  そうだな。
おうの 血を流したほうがよくないですか。
燕石  迫力がでるな。
 
  血色が悪く口から血が滴る松蔭が出来上がる。
 
燕石  完成だ。これが暗がりから現れると。
おうの 怖いですね。
燕石  更に龕灯の灯りを下から当てると迫力が増す。きっと腰を抜かすぞ。
竹庵  手鏡ありますか。
お久  どうぞ。
 
  お久、竹庵に手鏡を渡す。
 
竹庵 これが松蔭先生ですか、嘘だ。
 
  暗転。
 
 
 
 
 
元の場所・夜
 
寺の鐘があやしく響く。
燕石、竹庵、お久、おうの車座で作戦会議。
 
燕石  段取りの確認だ。まず私が高杉さんに声をかけてこの部屋に誘導する。そして私の合図で。
おうの 灯りを消します。
お久  屏風の陰で私と親分さんが笛と太鼓を使い「ヒュードロドロ」を演奏。
竹庵  続いて物陰に隠れた私が高杉殿の前に立つ。あの、ここで晋作、晋作と声をかけてても。
燕石  いいんじゃないか。おどろおどろしい声をだしてくれ。
竹庵  了解。
おうの 続いて私が先生の顔を龕灯で下から照らす。
燕石  驚いて逃げようとした高杉さんを私が後ろから羽交い絞めにして動きを封じる。
おうの 龕灯を外して暗くする。
竹庵  その間に素早く移動して高杉殿の目の前まで移動する。
おうの 灯り入ります。
竹庵  晋作思い出せ。私から頼まれたことを思い出せ。うらめしや。
お久  これで思い出しますかね。
燕石  効果がなければ改めて考えよう。時は満ちた、作戦を決行する。諸君、位置に着け。
三人  はい。
 
  竹庵、お久、おうの所定の位置につく。
  燕石、隣の間に行く。
  奥の間から「晋作、晋作」声。
  燕石、戻ってくる。
 
燕石  起きた、来るぞ。
 
  高杉、入ってくる。頭を押さえふらつく。
 
高杉  なにかありましたか。
 
  燕石、屏風の陰から合図を送る。
  おうのが行灯を消し暗くなる。
  燕石とお久、幽霊の効果音を演奏。
  高杉、状況が飲み込めず挙動不審に。
  竹庵、闇の中で所定の位置につく。
 
竹庵  晋作、晋作。
高杉  誰だ。
 
幽霊の効果音、盛り上がる。
間を置かずにおうのが龕灯で竹庵の顔を照らし、悲惨な幽霊の顔が闇に浮ぶ。
高杉、絶叫と共にすっ転ぶ。
 
竹庵  晋作、私から頼まれごとをされただろう。思い出せ。うらめしや。
 
  高杉、我を失い逃げるが足が覚束ない。
  燕石、その高杉を確保。
 
高杉  来るなッ。
竹庵  晋作、私から頼まれたことを思い出せ。
高杉  幽霊から頼まれごと。誰なんだ。
竹庵  松蔭、吉田松陰だ。
高杉  先生はそんなお顔でしたか。
竹庵  し、死んでこんな顔になった。
高杉  そうですか。
竹庵  思い出せ。
高杉  頭が霧に包まれたようで記憶が。先生、私は誰を捜せばいいのです。
 
  高杉、燕石を振り払い竹庵に土下座。
 
高杉  捜して、なにをすればいいのですか。
竹庵  それは自分で考えろ。
 
  高杉、竹庵の足にすがる。
 
高杉  教えてください。
竹庵  触ったら駄目。
 
  竹庵、振りほどいて逃げ出す。
  坂手がくる。
 
坂手  燕石、手形をあらためにまいった。
 
  坂手と竹庵が鉢合わせ。
  坂手、金切り声を上げて動かなくなる。
  竹庵、おうの背に隠れる。
 
坂手  なんだ今のは。ああッ、いかん厠を借りるぞ、壊れていてもいい。
 
  坂手、理解不能な歩き方で去る。
 
燕石  坂手様。
 
  慌てたお久、行灯を燈す。
 
燕石  灯りをつけるな。
 
  今までの仕込が白日の下に晒される。
 
高杉  これは一体なんです。
 
  気まずい沈黙。
 
高杉  先程の医者じゃないか。何のつもりでこんな真似を。
竹庵  それが……。
燕石  刺激を与えれば記憶が蘇るかもと竹庵先生が。
竹庵  いや。
高杉  それで松陰先生の幽霊を。
竹庵  あはは、少しは思い出しましたか。
高杉  いいえ。
燕石  駄目だったか。
竹庵  仕方ない、こうなったら直接頭に衝撃を与えましょう。思い出すかもしれません。
燕石  殴るんですか怪我人の頭を。
竹庵  これは治療です。
燕石  (手頃な棒を探し)ガツンっといっていいですか。
高杉  いやです。
燕石  我慢しましょう、あなたのためだ。
高杉  いい加減にしてくれ。
お久  親分さん、坂手様はすぐに戻ると仰いました。今は高杉様にお隠れいただいたほうが。
燕石  確かにそうだ。また隠れてください。
高杉  (うんざりだが)そうします。
 
  高杉、去る。
 
燕石  ややこしくなるから先生も。
 
  竹庵、去る。
  入れ代わり坂手が出る。
  坂手は袴を穿いていない着流しスタイル。
 
燕石  まだ働いておいででございますか。
坂手  取り乱してしまった、あれはいったい。
燕石  驚くのはもっともです。坂手様は侍ゆえ信じないでしょうが、我が家になにやら妖しい物の怪が。
坂手  物の怪だと。あれは幽霊だと申すか。
燕石  おそらくは。
おうの あれ、袴は。
お久  脱いでますね。
坂手  ……。
燕石  坂手様、袴は。
坂手  干してある。
おうの もしかして。
坂手  ……武士たるものものが妖怪や幽霊など信じるべきものではないが憹は見た、肝が潰れた。世の中には分からないことがある。
 
袴と下帯が頭に絡まり混乱する高杉が現れる。
 
高杉  誰か、助けて。
 
背後から竹庵が現れ素早く引き戻す。
 
坂手  幽霊と憹の袴とふんどしが。
 
袴と下帯が投げ込まれはらはらと舞う。
坂手は腰が拭けて目を白黒させる。
坂手、どうにか起き上がり、それを拾う。
 
坂手  し、失礼つかまつる。
 
  坂手、あたふたするが疑わしげな視線を残して去る。
高杉と竹庵が顔を出す。
 
竹庵  感づかれましたか。
燕石  大事腰部だろう。しかし泡を喰らいましたぞ。
高杉  厠に行くと中にあの侍が。物干しの影に身を隠してやり過ごし立ち上がると、濡れた何かが顔に絡みついて離れない。それで面食らって。
竹庵  これからどうします。
高杉  松陰先生に何かを依頼されたのなら、私ははたさなければなりません。町に出ます、刺激を受けて思い出すかもしれない。
燕石  記憶をなくして彷徨えば、どうなるか知れたものでしょう。駄目です。
高杉  さりとて。
おうの 晋作様は女を捜していたのではありませんか。
高杉  松陰先生は学問の鬼だ。女の噂など聞いた事がないし相手にさえしておられなかった。女に用などあるはずがない。とにかく出て行きます。
燕石  駄目といったら駄目だ。
竹庵  どうです、ここは腹ごしらえをして改めて考えませんか、そうすればいい知恵が。私はお腹がすきました。
燕石  そうしょう。お久、夜食を作ってくれ。
お久  急ぎこしらえます。
 
  お久、奥にいく。
  舞台が暗くなり、黒子が舞台の空きスペースに簡単な台所を運ぶ。台所の上には笊に乗った食材、まな板に包丁など。後ろにお釜と鍋。
  お久、台所に立ちお釜に火を入れ食材を刻む。
  おうのが現れる。
 
おうの 手伝いましょうか。
お久  御願いします。
おうの 何をつくるんです。
お久  大したものは出来ません。ご飯にお味噌汁、山芋の千切りと山菜和え。お味噌汁を任せても。
おうの 了解。
 
  お久、食材を手際よく料理する。
  おうの、味噌汁を作る。
 
お久  先程はすみませんでした。
おうの 気にしてません。……あなたは松陰先生の知り合いですか。
お久  野山獄で先生の講義を受けた囚人の一人です。
おうの 獄舎で講義。
お久  寅次郎先生は異国の軍艦に乗り込み密航を企て幕府に捕らえられ、国送りになり野山獄に入れられました。その時私は在獄二年、長い人で在獄四十七年、ほとんどのものが十年前後入獄しておりました。房は何もする事がなく、皆淀んだ目で息をするだけの陰気で退屈な暮らしでした。でも寅次郎先生が入獄され、黒船来航以来激変する世の中や外国のこと、孟子などを獄舎で講義され、私たちは変わりました。不思議な魅力を持ったお方で偏屈で頑固な囚人や獄卒の者、獄仕官まで寅次郎先生の講義を受けました。私は女だてらに先生の房に押しかけ、講義の分からないところを質問しました。先生のお陰で無意味な獄中暮らしが、意義のある日々にかわったのです。
燕石  (現れ)句会が行われたそうだな。
お久  はい。獄内で灯火を使うことは禁じられておりましが、獄仕官殿の計らいで許され夜更けまで会合ができました。それで始まったのが句会です。そこで私と先生は連句を巻きました。
燕石  「酒と茶に徒然しのぶ草の庵」
お久  (驚く)「谷の流れの水の清らか」
燕石  上の句は松蔭先生、下の句はお久か。
お久  ご存知でしたか。
燕石  これでも私は詩人だ。もう一句。
お久  「四方山に友よぶ鳥も花に酔ひ」
燕石  「蝶と連れ行く春の野遊び」松蔭先生も乙なことを仰る。蝶はだれかな。
お久  よしてください。そんなのじゃありません。
 
  離れたところで高杉が見ている。
 
燕石  安政二年、松陰先生は藩命で出獄された。同囚たちはその時別れの惜しむ句を。
お久  (頷き)「鴫(しぎ)立ってあと淋しさの夜明けかな」
……私の句です。
燕石  鴫か。
おうの 鴫って鳥の。
 
  燕石、耳打ち。
 
おうの え、松蔭先生のもうひとつの号。
燕石  いちいち口にするな。
お久  親分さん、高杉様は。
燕石  居間で竹庵先生が見張っている。
お久  出て行くのを諦めましたか。
高杉  (離れた位置)飯を食ったらここを出ます。
燕石  まったく、頑固な男だ。
 
  燕石、高杉のところに。
 
おうの 聞いていい?
お久  どうぞ。
おうの 松蔭先生に惚れてたの。
お久  料理のことじゃ。
おうの いいじゃない。
お久  私は寅次郎先生より十歳も歳上です。
おうの 歳は関係ない。
お久  それに未亡人です。
おうの 男ばかりの獄舎にどうして女が。
お久  そこしか牢がなかったから。
おうの なぜ入れられたの。
お久  不義密通です。
おうの え、それじゃ。
 
  高杉、耳を傾ける。
 
お久  夫の死後、淋しさを紛らわすために三味線引きを家に招きいれました。元々芸事が好きで深入りし愚かにも家に泊めてしまった。姑にそれを見咎められ実家に戻された。父は家の辱だと借牢願いを藩に出し、私は野山獄に押し込められました。
おうの そんなことで。
お久  三百石取りの武士の妻でしたから。
おうの 武家は厳しいね。でもそのおかげで松陰先生に会えてよかったんじゃないですか。
お久  そうですね。
おうの 松陰先生はどうだったんです。
お久  どうって。
おうの だから。
お久  寅次郎先生は私など相手にしません。邪淫してしらぬ顔して他人に対し守節の美婦を誇るとも……。あなたの孟子の解釈を聞いて、妙に悔しくなってこんなことをいいました。でも本当少し違います、私が変えて話しました。守節の美婦ではなく守節の未亡人です。
おうの 松蔭先生がそういったの。
お久  囚人から聞きました先生がそう仰ったと。
 
  間。
 
おうの そんなことを。
お久  ……。
おうの 私なら惚れない。晋作様も理念ばかりで心ないことをいう方に心酔しない。
お久  寅次郎先生は投獄されたわけを詮索しませんでした。それで私からお話したのです。すると過去はどうでもいい現在なにをしているか、これからどうするかが大事だ、堂々としてなさいと仰っいました。
おうの 慰めのつもりなのそれ。松陰先生はいってることがちぐはぐじゃない。
お久  私はそれで十分です。
おうの お久さん。
 
  間。
 
お久  ところで、高杉様を外に出したくないですよね。
おうの もちろん。
お久  私が何とかします。あなたは決して和え物を食べないように。
 
  お久、出来上がったお膳を運んでいく。
 
おうの あの、ちよっと(味噌汁を持ち後を追う)。
 
  本舞台明るくなる。音楽IN。
  食卓にお膳が並ぶ。その間に黒子が台所を片付ける。
  食事が始まる。燕石、自分の膳に和え物がないことに気づきお久に文句を言うが、お久は取り合わない。
  食事の最中、坂手が忍んでくる。気づかれないよう慎重に進み物影に隠れる。
 
  まだ食事中。
 
燕石  どこまで覚えているのですか。
高杉  最近の事はさっぱり。昔の事も斑に欠け落ちているようで。松蔭先生が江戸に招換され伝馬町の牢獄送りになったとき、私は昌平坂学問所にいて先生の世話をしました。そこからすっぽりと抜けて、萩で先生の死を知ったのは覚えている。そこからは霧の中。先生に頼み事をされたのなら伝馬町でしょうか。
お久  寅次郎先生は老中間(まな)部(べ)詮(あき)勝(かつ)様の暗殺を企て、野山獄に逆戻りしてきました。獄中から高杉様に計画の参加を呼びかける書状を送りましたが、あなたは反対されたようです。
高杉  私か背賛同しなかった。
燕石  そんなことをすれば松陰先生の命はない。反対するのは弟子として当然だ。
竹庵  まことに無謀です。
高杉  あッ。
竹庵  どうかしました。
高杉  伝馬町の牢で、男子の死ぬべき時はいつかと、松陰先生に問いかけたことがあった。
竹庵  思い出してきましたね。
高杉  先生は後に手紙で、死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつまでも生くべしと答えられた。
竹庵  いいぞ他には。
燕石  待ってくれ。門下生に宛てた留魂録の冒頭に松蔭先生の辞世の句「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置まし大和魂」の一首がある。今の話とこの一首を照らし合わせると、松陰先生は自ら死を選んだのか。
高杉  馬鹿な。
燕石  松陰は尊皇攘夷派の大物、梅田(うめだ)雲浜(うんぴん)との関係を疑われ江戸に召喚された。疑いは晴れたが老中暗殺計画が露見して死罪になったと聞く。松蔭先生は男子死ぬときの例を身をもって伝えるために、自ら暗殺計画を暴露したのか。
竹庵  なんてお人だ。
燕石  あなたが騎兵隊を率いて決起したのは、この生死観に従ったからでは。
高杉  わかりません。
 
  高杉がふいに笑い出す。
 
高杉  ともあれ記憶を取り戻すために、私はここを出て行きます。
竹庵  何度もお止めしてますのに。
高杉  止めても無駄。あれ、なぜだか可笑しくてたまらない。どうしたんだ。
竹庵  (笑い)そういえば私も楽しくなってきた。
 
  二人は腹を抱えて笑い、何もないのに爆笑して身をよじらせて転げ回る。
 
竹庵  踊りませんか。
高杉  いいね。
 
  二人は他人に理解されない歓喜の舞を踊る。
 
お久  よっしゃ。
おうの これで出られないわ。
燕石  大笑い茸か。だから私に山菜の和え物を食べさせなかったのか。
高杉  大笑い茸だって。
竹庵  私も食べたんだ。
 
  二人は意味不明の笑いに包まれる。
 
燕石  どうするんだ、ヤバイぞ。
お久  大丈夫です、生を少しだけですから。じきに正気に戻ります。
 
  侍たちが走ってくる。
 
燕石  しまった。
侍一  高杉晋作捜したぞ。お命ちょうだい仕る。
 
  高杉、笑っている。
 
高杉  誰?
侍一  愚弄するか、我らは長府藩士。
高杉  ご苦労様。本当に狙われていたんだ。
侍一  貴様ッ。
 
侍たち抜刀。
高杉は大笑いして剣を抜く。
 
竹庵  やばくないですか。
高杉  だな、でも楽しくて。
竹庵  私も。
侍一  やれッ。
坂手  (出てくる)待て。
侍一  なに奴。
坂手  高松藩町奉行、坂手十左衛門。高杉晋作殿はかねてより幕府のお尋ね者だ。こちらに渡していただこう。
燕石  坂手様。
坂手  やはり匿っておったな。
燕石  感づいておられましたか。
坂手  うむ。
高杉  いやぁ絶体絶命だ。
 
  高杉、涙を流して大笑い。
 
燕石  これでは逃げられない、どうするんだ。
お久  ご、ごめんなさい。
侍一  問答無用、斬れ。
 
  侍たちが高杉に斬りかかる。高杉、笑いながらかわす。侍たちの斬下が高杉を襲う。坂手が高杉に加勢する。燕石も刀を取り加勢に加わる。
 
高杉  侍の斬り合いに加担せずとも。
坂手  その通りだ。
燕石  必ず助けると約束した。
 
  三人の勢いに押され侍たちは劣勢になる。侍一、刀を払われて傍らの棒を掴むと高杉に挑む。笑いながら見ていた竹庵、侍一にしがみつく。
 
竹庵  加勢いたします。
高杉  危ないって。
 
  斬られて沈黙していた侍二、高杉に斬りかかる。高杉がかわし侍二の足を斬る。侍二は膝をつく。侍一、竹庵を殴り高杉を棒で殴り倒す。坂手、侍一の棒を払い切っ先を喉元に突きつける。
 
坂手  もうよせ。
侍一  くそ、引け。
 
  侍たち、逃げていく。
 
坂手  無事でござるか。
 
  笑いは消えている。
 
高杉  なんとか。
坂手  しからば奉行所までご足労願おう。
高杉  そうはなかない、私は松蔭先生に頼まれたお役がある。
坂手  よもや謀反の企てではあるまいな。
高杉  人を捜している。されど覚えてない。私は誰を尋ねてなにをすればいい。
坂手  どういうことだ。
燕石  高杉さんは記憶をなくしております。
坂手  嘘か誠か分からん。
燕石  本当です。
坂手  なんであろうと嫌と申すなら引っ立てる。
高杉  誰がなんといおうがこの地を離れない、私には伝えなければならないことがあるんだ。なのに今も霧の中だ。
 
  高杉、頭を抱えて蹲る。
 
おうの 私を萩に迎えてくれたとき、なぜ私を連れて逃げるのですと尋ねました。門下生は先生の信念や理念についてきたと思っていた。しかしそれは間違いだ、人を思う心が胸の内にあったからだ。今まで考えもしなかったが、変わられた先生を見て内なる心を学んだ。だからだと。
高杉  変わられた先生。
おうの 変えたのはお久さんではありませんか。晋作様はお久さんを捜していたのでは。
高杉  なに。
お久  ありえません。
燕石  なくもない、お久とはすれ違いだが高杉さんも野山獄に入れられた。獄内でお久の居所を聞いてここまできたとすれば。
おうの ありえます。
燕石  松陰先生は江戸に招換される前、再び野山獄に送られた。二人は再会したが半年後、いよいよの別れに松蔭先生が詠んだ句がある「箱根山越すとき汗の出でやせん君を思ひてふき清めてん」まだある「一声をいかで忘れん郭公」君を思ひての君がお久なら、一声はお久の声、言葉ではないのか。
 
  お久、過去を見るような遠い目。
 
お久  寅次郎先生が江戸に出発される前夜、私は餞別を渡すために先生の房にまりいました。月明かりがわずかに差し込む暗い部屋に静かに座っておらた先生に心を込めて縫った手拭いを渡すと、ありがとうと私の手を握られたのです。先生の表情はわかりませんが、手の温もりが伝わってきて、私はたまらなくなり必死にささやきました、お慕いしておりますと。
燕石  その返事が「一声をいかで忘れん郭公」松蔭先生の思いが伝わる句だ。
お久  本当にそうなのでしょうか。私が告げたあと先生は仰った。死ぬる身と決めております。忘れてくださいと。ですから、それ以上はなにもありません。忘れてくれと仰ったのですから。
高杉  先生がそんなことを。
おうの でも松蔭先生は、お久さんの言葉を胸に死んでいったんじゃ。
高杉  学問一筋の先生が、不義で獄舎に入れられた未亡人を相手にするものか。
おうの 先生は変わったのでしよう。
高杉  松陰先生は我らの理想のために死んだのだ。女を思って散ったのではない。
うおの 理想の中に心があったのでは。
高杉  先生を愚弄するなッ。
おうの 句が先生の心を教えてくれているじゃない。
高杉  うるさい。
 
  おうの、落ちていた棒で高杉を叩く。
  高杉、変な声を上げて倒れる。
 
お久  やめてください高杉様のいう通りです。死に際に私に伝言などあるはずございません。
「手のとはぬ雲に樗(おうち)の咲く日かな」私が先生に送った最後の句。寅次郎先生は手の届かない存在でございます。
 
  気絶していた竹庵、放心状態で身体をおこす。
 
竹庵  晋作、伝言してくれ。
坂手  しっかりしろ。
竹庵  これでは死にきれない。
坂手  なにを申す。
竹庵  晋作。
高杉  あ、ああ……。
竹庵  晋作。
高杉  先生。
 
  高杉、頭を地面に打ちつける。
 
燕石  やめなさいッ。
 
  間。
 
高杉  ……帰国命令が下り萩に戻る前日、私は別れを告げるため伝馬町に収監された先生を尋ねた。いつも毅然とした先生がこの日は憔悴されたご様子で、挨拶のあと私はかける言葉がみつからなかった。これは内密にしてほしい、思いがけない言葉が飛び出し私が当惑すると、ほどなくの死罪にあたり家人門弟に書状をしたためたが、文に出来ない心がある。萩に戻るなら伝言してほしい、でなければ私は死んでも死にきれない。野山獄の高洲久子に伝えてくれ。
 
  高杉、お久の前に。
 
高杉  久さんに送られた手拭いを握り締め旅立つ。「天仰ぎ袖の樗に心寄せ」おうちは栴檀(せんだん)、栴檀は高洲久子。栴檀の花が咲き郭公が鳴けば思い出してほしい。私もお慕いもうしております。
 
  高杉、地面に膝をつく。
 
お久  ありがとうございます、先生。
高杉  伝えました。
 
  燕石、高杉に肩を貸す。
 
燕石  役目は終わりましたな。
高杉  はい。
おうの 晋作様。
高杉  おうの。
おうの 思い出されましたね。
高杉  なんとか霧が晴れた。
 
  坂手、歩み出る。
 
坂手  ご足労いただこう。
燕石  待ってくれ。
 
  燕石、坂手の前に正座する。
 
燕石  見逃していただきたい。このまま引かれていけば日柳燕石の男がすたります。
坂手  なに見逃せと。
燕石  代わりに相当の始末料を。
坂手  無理だ、お上の面目がたたん。
燕石  では私が身代わりで縛につきます。それで坂手様と藩の面子も立ちましょう。
坂手  牢に入ると申すか。
燕石  はい。
坂手  そこまでの決心とは。
 
  坂手、目を閉じる。
 
燕石  お久、お二人の仕度を。
 
  お久、高杉たちの荷物を手渡す。
  燕石、文を書く。
 
燕石  満濃池(まんのういけ)近くの吉野村に古市(ふるいち)麦(ばく)舟(しゅう)という十年以上前からの知り合いがいる。これを渡せば四国を出る段取りをつけてくれる。
 
  燕石、文と財布を渡す。
 
燕石  入用になるでしょう。
高杉  なんと礼を申してよいか。
燕石  坂手様がいつまでも目をつぶってくれるわけじゃない、早く行きなさい。
高杉  かたじけない。
 
作・日柳燕石、詩吟「娑婆歌」流れる。
高杉、おうの深く礼をして去る。
 
燕石  もう開けてください。
 
坂手、目を開け溜息。
 
坂手  馬鹿者が。
燕石  あの人は今の日ノ本になくてはならないお方。これから先が楽しみだ。
 
郭公の声、聞こえる。
燕石、お久、空を仰ぐ。
郭公が夜空に舞う姿を燕石は見た気がした。
 
燕石  郭公ですな。
坂手  どこに?
燕石  私には確かに見えます。夜明けに向かって飛ぶ郭公の姿が。
お久  私にも見えました。
 
  燕石、新たな決意を胸に夜空を見上げる。
 
  幕。

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