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  魂の送り人 夏喜一時庵

 
 
 
登場人物
 
夏喜     一時庵の店主で魂の送り人。
 
達吉     やくざ。
 
新之助    材木問屋の跡取り。
 
ダキ     夏木の右腕。人間ではない。
 
佐吉     呉服屋の三番番頭。
 
澄香     達吉の元婚約者。今は宿場女郎。
 
 

第一幕
 
 暗転の中、まず聞こえてきたのは轟音だった。
 たぶん濁流の音だろう。
 それが途切れて静かになるころ、闇の中を男が歩いてきた。
 
 彼の名前は佐吉。呉服問屋の番頭だった佐吉は薮入りで実家に帰る途中、ある不幸に巻き込まれて一時的に記憶を失っていた。
 彼は不安にかられて彷徨い歩いたが、闇の中には人はおろか、小さな灯りすら見出せず、やがて疲れ果てその場に座り込んだ。
 それでも彼は、懸命に助けを呼んでみた。
 
佐吉   だ、誰かいませんか。
 
 周囲を見渡すと闇の一角がぼんやりと光っていた。
 
佐吉   灯りだ!
 
 滲むような心もとない光りだったが、佐吉はそれに向かって、藁をも掴むような気持ちで走った。
 近づくと、提灯を持った黒尽くめの女が立っていた。
 女は夏だというのに黒い外套を羽織り頭からフードを被っている。
 
佐吉   うあああ。よかった。人だ──すみません。道に迷ってしまいまして。ここはどこですか? 申し訳ないけど、近くの町までの道を教えてくれませんか。
 
女    佐吉さん──ですよね。
 
 自分の名前を呼ばれて佐吉は驚いた。
 女を凝視するが、提灯は仄暗くフードの中は影に覆われて見えない。
 
佐吉   そうです。あの、どちら様で?
ダキ   ダキっす。あんたの案内人だよ。あたいと一緒に来て。
佐吉   お店から頼まれて迎えに来てくれたんだ。助かった。真っ暗で、そのうえ誰もいなくて困ってたんだよ……ここはどこなんだろう? この辺り、まったく民家がないんだね……と言うか、なんで私はこんなところにいるのやら? あははは。
ダキ   やっぱり自覚がなさそうっすね。
佐吉   自覚っていうか……なんだか記憶が曖昧でね。酒を飲んで、大川端を歩いていて……それから……あれ? 思い出せないなあ。いやあ。飲みすぎかな。うん。飲みすぎたな、これは。
 
 ダキはため息を漏らしたあと、胡乱な目を佐吉に向けた。
 
ダキ   面倒クサ。だから自覚のないやつは嫌い。
佐吉   ん、何の自覚ですか。
ダキ   死んだ自覚だよ。
佐吉   死んだ?
 
 ダキは深く頷いた。
 
佐吉   へ? 誰が?
ダキ   あんたが、だよ。
佐吉   はあ? ……あははは。くだらない冗談を。それより早く町まで案内してください。
ダキ   まあいいか。ついてきな。
 
 
 ダキの後について歩き出したが、佐吉はフイに立ち止まった。
 不安の渦巻く中、人と出会えて安心した佐吉の頭は冷静さを取り戻しつつあった。ところが取り戻したその冷静さが、彼の胸をざわつかせ始めた。
 佐吉は慌てて辺りを見回した。
 
佐吉   あ、あの……
ダキ   ……どうした?
佐吉   こんな夜中に女一人で迎えに来たのか。誰に頼まれた。
ダキ   ……夏喜さんです。
佐吉   誰だそれ? お店の人間じゃないな。
ダキ   ええと、魂の送り人っすけど。
佐吉   ……訳のわからない事を。それに私は夏木なんて人は──。
 
 佐吉はハっとして後ずさりした。
 
ダキ   なんっすか。
佐吉   も、物取りか夜盗の類か。
ダキ   違うっすよ。ああ面倒くせえなあ。いいから早く来いよ。着いたら夏木さんが説明してくれるから。
佐吉   いや、いやいやいや。遠慮する。ひとりで帰るから。
ダキ   オマエなーッ。
 
 佐吉はダキから逃げ出した。
 一目散に駆け出したが、逃げた先には腕組みをしたダキが不敵な笑みを湛えて佐吉を睨みつけていた。あわてて反対方向に逃げたが、その先にはダキが。また逃げ出したが、やはり逃げた先にはダキがいた。
 
佐吉   そ、そんな!
 
 ダキは力任せに佐吉の胸倉を掴んで引き寄せた。
 その拍子に覆っていたフードが外れて彼女の顔が顕になる。
 
佐吉   ひッ!
 
 ダキの顔には凡字っぽい奇妙な形の刺青があった。そこに琥珀色の瞳。
緋色の髪飾りでまとめられた茶色の髪。頭の上には、大きな獣の耳が生えていた。
 
ダキ   よく見ろ。こんないい女が盗人に見えるかよ。
佐吉   か、顔に刺青……みみ、耳が……、
ダキ   あん、文句でもあるのか。
佐吉   いい、いえ、文句なんて、ま、まったく。
ダキ   お前さ、ココに来る前に何があったかよく思い出せ。
佐吉   思い出せといわれても……お、お盆の薮入りで実家に帰ろうとしてたんだ。それで一杯飲んで……、
 
声    ダキ、もどったのか。
ダキ   あっ。帰りました。
 
 闇の中に茶店が建っていた。
 
佐吉   ……こ、ここは?
ダキ   今世の突き当たりだ。江戸にある霊道の一つ、第二十七州崎冥界門前のお休み処。通称夏喜一時庵だ。つまり茶店だ、入れ。
 
 ダキに突き飛ばされて佐吉は茶屋の中に入った。勢いよく押された佐吉は転びそうになり右足を踏ん張ったが、更に尻を蹴飛ばされて結局転んだ。
 
佐吉   痛いなア、なにするんです。
ダキ   夏喜さん、連れてきました。
夏喜   ご苦労さん。
佐吉   (え、誰かいる?)
 
 闇に沈んだ茶店に複数の青白い灯りが燈った。そこには花の模様が浮びどれもゆっくり回っている。これらは盆灯篭だ。
 その淡い灯りが椅子に座る男の横顔を浮かばせた。
 彼は夏喜といい、この茶店の主人だ。黒地で裾周りに赤い牡丹柄をあしらった着物の上に、夏物の袖なし黒羽織りを着ている。顔は色白で鼻筋が通り薄い唇は艶がある。目元は優しげだった。髪型は長く伸びた黒髪を後ろで束ねている。
 
夏喜   いらっしゃい佐吉さん。
佐吉   ななな、なんですかココ。あなた誰です。
夏喜   ここは茶店一時庵。私は店主の夏喜と申します。短い間ですがよろしくお願いします。さっそくですが佐吉さんの場合死んだ自覚がなく現世を彷徨い過ぎたので時間がありません。ですから簡単に説明しますので理解していただいた上、速やかに成仏してほしいと考えています。よろしいでしょうか。
佐吉   あの、私はですね……。
夏喜   やる事は簡単です。死んだ自覚をして末期の酒を飲み現世(うつしよ)の未練を断った後、冥界の門をくぐる。それだけです。
佐吉   いくらお盆だからと言ってこれ何の冗談ですか。私は日本橋の呉服問屋、鳴海屋の三番番頭ですよ。大概にしないと、後で酷い目にあうぞ。
夏喜   冗談ではなく時間内に自覚しないと成仏出来ません。
佐吉   くだらい。馬鹿馬鹿しいにも程がある。私は出て行く。
夏喜   ダキ、お願い。
ダキ   承知しましたお任せあれ。
 
 ダキは外套から隠し持っていた短刀を抜いてほくそ笑んだ。
 
ダキ   ちよーっと痛いぞ。
佐吉   や、やめッ、うわーッ。
 
 佐吉は逃げる間もなくダキに何度も斬られ、倒れたところを馬乗りされて身動きが取れない。目の前で短刀の刃が妖しく光り、佐吉はダキから逃れようと手足をバタつかせた。
 
ダキ   いい格好っすよ。女にマウント取られて恥ずかしくないんすか。
佐吉   うわっ。バカ! よせ!
 
 ダキの短刀が佐吉の心臓を刺した。
   佐吉が断末魔の悲鳴をあげる。
 
佐吉   い、い痛い死ぬ、殺される。誰か助けて。
ダキ   五月蝿えんだよ、刺されても血は流れない。心臓はとっくに止まっているから刺しても意味ない。あんたはココに来る前から死人だ。実家に戻る時、両国橋の袂で一杯引っ掛けてほろ酔い気分で大川端を歩いている途中、足を滑らせて水かさの増した川に落ちたんだ。
佐吉   落ちてない。私は岸辺に咲いていた百合の花を取ろうと……。
ダキ   で、川に落ちたろうが。百合の花ががお前の死亡フラグだよ。
佐吉   意味わかんない。あの、助けてください。
 
 佐吉は夏喜に助けを求めたが、帰ってきたのは微笑みだけだった。
 
佐吉   笑ってないで何とかしてッ。
夏喜   落ち着いてください。その花は、去年なくなった奥さんの墓前に供えようとしたんですよね。奥さん、白い百合が好きだったんですか?
佐吉   そ、そうです。久しぶりにアイツに会えるなと考えながら歩いていたら、川岸に流されず咲いていた百合の花が目にとまって。それで……女房が好きだった花が濁流に流されずけなげに咲いている。あれをお墓に持っていったら喜ぶだろうなって手を伸ばしたら……
夏喜   手を伸ばしたら?
 
 ドボンっと、大きなものが水に落ちる音がする。
 だがそれはすぐに濁流の轟音に消し去られた。
 
佐吉   え、川に……落ちた……。
夏喜   思い出しましたね。
佐吉   そんな……。
ダキ   そんなもこんなもあるか。夏喜さん時間は。
夏喜   ぎりぎりセーフ。よかったですね。
 
 夏喜はどこからか砂時計を取り出すと近くの机に置いた。砂はほんの僅か残っていて、白い糸を引きながら下ガラスの砂溜まりに落ちていた。
 
夏喜   この砂が佐吉さんの現世(うつしよ)での時間です。砂が落ちきったときあなたは選択を迫られます。成仏するなら冥界の門をくぐる。しないなら浮遊霊や自縛霊になってこの世に留まる。これはお勧めできません後が大変だからです。それで佐吉さん、どうされます。決めるのはあなたです。
佐吉   いやです私はまだ死にたくない。やり残したことが沢山あるんだ。
夏喜   諦めてください寿命がつきたんです。ですから佐吉さんは成仏して奥さんのところへ行くべきだ。
佐吉   女房のところへ……。
夏喜   はい。百合の花は持っていますよね。
佐吉   え?
 
 佐吉が自身の右手を確認すると、いつの間にか百合の花を手にしていた。それは川に落ちたとき握り締めていた川岸の百合の花なのだろう。
 
夏喜   それを奥さんに届けてはいかがです。
 
 佐吉が情けなさそうに目尻を下げて花を見た。そして溜息。
 
佐吉   う、ううう……
夏喜   はあ?……
ダキ   うわわわ。泣くなよ、おっさん。
佐吉   これ本当なんですね。あの時死んだんだ。実感ないな。
夏喜   そういう人は多いですよ。頑固に受け入れない人も少なからずらいらっしゃる。困りモンですがね。
佐吉   成仏すれば女房に会えますか。
夏喜   会えますよ。奥さん、門の向こうで待ってらっしゃいますから。
 
   佐吉は少し遠い目をして微笑むと、彼は持ていた百合の花を愛しむように自らの額に当てた。
 
佐吉   そうなんだ。でしたら逝きます。
夏喜   承知いたしました。では末期の酒をお飲みください。夏ですから冷でかまいませんよね。
 
 夏喜はお猪口を佐吉に手渡すと徳利で酒を注いだ。
 
佐吉   女房の時もそうでしたが、人の命ってあっけないですね。
夏喜   ですから今の生活がこのまま続くなんて考えず、今やるべき事をやり伝える事は伝えましょう。限りある時間を、人は悔いなく生きるべきなんです。佐吉さんの人生はどうでしたか。
佐吉   どうでしよう。わかりません。でも、女房に伝えられなかった事が沢山ありましたね。
 
 夏喜は黒い和綴じの帳面を取り出して開き、書かれた文字を黙読した。
 
夏喜   奥さんの事はさて置き、仕事は頑張ってきたと思いますよ。
佐吉   なんですそれ。
夏喜   霊導帳といいます。当日死亡する氏名と経歴が記載されてます。日々勝手に更新されますがね。あ、砂が落ちてきりました。もう飲んじゃってください。
佐吉   あ、あのぉ……
夏喜   なんですか?
佐吉   じつは、未練というか懺悔したいというか。この酒を飲む前に話しておきたいことがありまして。
夏喜   わかりました。手短にお願いします。
佐吉   ここに来る前に、悪友たちと酒を飲んでいましてね。そこで一人の男が『今から川に飛び込んで死んで見せるから百両寄越せ』って、酔った勢いで言い出しました。それに私は笑いながら『飛び込め! 死ね!』って。そんな悪態をつくからこんなことになったのかなぁ。あいつ、惚れた女を助けるために、本気で言ってたのを、私は知っていたのに……こんなことなら、力になっていやればよかったかな……って。
夏喜   もう、過ぎたことです。
佐吉   ……ですね。
夏喜   さあ、どうぞ。
 
 佐吉は急かさせるまま酒を飲んだ。すると嘘のように心が落ち着いた。
 
佐吉   不思議な酒ですね。
夏喜   現世の未練がなくなる「銘酒未練立ち」といいます。それじゃいってらっしゃい。よい「アフターライフ(死後の生活)」を。
 
 突然、重厚な扉の開く音が一時庵を通り抜けて夏夜の闇に響きわたった。同時に開け放たれた観音開きの門(冥界門)が現れた。百合の花を胸に抱いた佐吉は、門から溢れる金色の輝きに体を抱かれ光りの中に消えた。 
 門は閉じると一瞬で消失し、一時庵に夜の静寂が戻った。
 
夏喜   お疲れ。
ダキ   おつかれさんっす。今日はこれで終わりっすか。
夏喜   まだもう一件ある。それがさあ、おかしいんだよねこれ見てよ。本日の死亡欄にはあと男性二人の名前があるのに、その下に内一名死亡予定って書いてあるんだよね。
ダキ   なにこれマジか。っていうか、これ超面倒くさい奴じゃないですっかね。きっとどっちが死ぬのか最後まで判らない、ガチ時間がかかる面倒くさい案件っすよ。
夏喜   でも時間は砂時計で決まっているけど。
ダキ   さっきもギリギリで、次もギリギリじゃ夜が明けます。あたし、時間外労働はしないって方針なんです。
夏喜   そう言わず付き合ってよ。
ダキ   無理っす。朝日を浴びるのは超ツライんで。
夏喜   泊まっていけば。何なら暗幕とか棺桶とか用意するから。
ダキ   女にそんなところで寝ろと。あ、もしかして仕事にかこつけて口説いているんですか。それ、やめて下さい迷惑です。それとも寝ている間に襲うつもりですか。マジでキモいからやめてください触ったら殺します。まあ優しくされたらそれはそれで嬉しいけど、絶対ワンチャンすらありませんから勘違いしないでください。
夏喜   速攻でフってくれてありがとう。で、帰るんだ。
ダキ   はぁい。もちろん帰ります。
 
 ダキはそそくさと帰り支度をすませると、
 
ダキ   遅くまで残業お疲れ様っす。夏喜さんは仕事人の鑑です。
夏喜   たんにブラック企業から足を洗えないだけだけどね。でも、そのぶん君が楽をできるからかまわないけど。
ダキ   夏喜さんのそういう優しいところ、私は好きっすよ。
夏喜   はあ……
 
 ありったけの笑みを夏喜に送り、ダキは手をふって帰っていった。
 夏喜はその後ろ姿に溜息をついた。
 
 
──場面は盆灯篭を残して暗くなる……
 
 
第二場(同じ場面)
 
 罵りあう男たちの声が闇の奥から聞こえる。
 それは次第に大きくなり、声は闇の中から実体を伴って現れた。
 
 一人の男は背が高く特徴的な四角い顔だが愛嬌があった。名前は材前屋新之助。材木商を営む豪商の長男である。つまり二代目なのだが、一代で名のある材木商にのし上がった父親とは比べ物にならない商才のなさが仇となり、今ではろくでもない放蕩息子のレッテルを張られている。まあ実際そうなのだから仕方ないだろう。
 片方の男は達吉と言うならず者だ。縞の着物をだらしなく着崩し開いた胸元は首から下げたお守りが覗いている。達吉は地元のヤクザ一家から杯を受けていたが、いつまでもうだつの上がらないチンピラ止まりの男だ。
 ちなみに二人は幼馴染である。
 
新之助  馬鹿だバカだと思ってましたが、これほどの大馬鹿とは信じられません。幾ら金の為とはいえ、死ねと言われたらハイわかりましたと死にますかね、普通。
達吉   いいか新之助。親のため一家のため、死んでくれと言われれば命を捨てるのがヤクザなんだよ。
新之助  親分が命令したんじゃない、私が冗談で言っただけです。気が置けない仲間との飲み会で出たその場のノリ、遊びですよ。それを真に受けて橋から飛び込もうとするヤツがいますか。
達吉   俺はいつだってマジなんだよ。何なら今からもう一度飛び込もうか。そしたら金を出せよ。
新之助  ああもう嫌だ。何でこんな奴が幼馴染なんだ。
夏喜   あの……。
 
 いつの間にか夏喜が後ろに立っていたので二人は驚いて飛びのいた。
 
──薄暗い照明が入る……
 
夏喜   深夜に大声は近所迷惑ですよ。
達吉   な、何だお前はッ。
新之助  いちいち突っかからない。すみません。
夏喜   今夜は暑いですね。よければ中で冷たいお茶でも如何ですか。ここ茶店ですよ。
新之助  え、茶店?
 
 確かに見た目は茶店なのだが、薄暗い店内で瞬く盆灯篭が摩訶不思議な空間を演出しているので二人はたじろいだ。
 
達吉   ここが……?
新之助  アハハ……お寺みたいですね。
夏喜   お盆を楽しむ為にあしらってみたんです。適当にお座りください。いまお茶を出します。
 
 入りたくない。二人の顔にそう書いてあった。
 なので夏喜は温和な顔をしながら強い口調で、
 
夏喜   どうぞ。
 
   と、脅した。
 
新之助  そ、それじゃお言葉に甘えて。達吉さん、座りましょう。
達吉   さ、酒はないのか。
夏喜   ございます。それじゃお酒で。
 
 二人は大きな机の椅子に腰を下ろすと、居心地悪そうに盆灯篭を眺めた。
 
新之助  妖しい雰囲気ですね。それにあの店主、茶店の主人に見えません。
達吉   だよな。ここ気味が悪いぜ。まさか……
新之助  な、なんです。
達吉   お盆に幽霊が集まる茶店だとか。
新之助  だ、だからこんなに盆灯篭が……
達吉   (笑い)なにビビってんだ。嘘にきまってら。
新之助  クソー。
 
   夏喜が徳利とお猪口をお盆に乗せて運んできた。
 
夏喜   すこし温いですがご勘弁を。
新之助  とんでもありません。
達吉   悪いな兄さん。
 
   二人は出された冷酒を口にした。
 
達吉   うめえ。
新之助  生き返ります。
夏喜   そうですか。
新之助  ところで御亭主、こんな辺鄙なところで茶店ですか。失礼ですがあまり客が来るとは思えないのですが。それにこんな深夜まで営業とは。
夏喜   この辺りは武家屋敷が多いんです。普段は人気の少ない場所ですが、お盆の時期になると屋敷は親戚一同が集まり賑やかになるんです。なので、昼間はお武家様の奥方、夕方からはお武家様、深夜は別口狙いで営業をしています。
新之助  へぇ─、そうですか。
達吉   別口って?
夏喜   例えば貴方たちみたいな方ですね。
 
   身を乗り出してそう告げると、夏喜はニコリと笑った。
 
新之助  わ、私たち……ですか。
達吉   まあ、確かに別口だな。
夏喜   本来なら三交代制で業務に当たりたいところですが生憎人手不足で私一人で切盛りしています。だから激務ですよ。寝る間もありません。倒れる前に本店に文句を言って職場環境改善要求をしたいです。
達吉   なんだその……職場なんたらって。
新之助  ええと、本店はどこなんです。
夏喜   閻魔丁です。
新之助  なんですそれ。そんなお店があるんですか。
夏喜   あるんです。本店の主な業務は犯罪人の選別です。知りません? 閻魔大王や奪依婆。ここはそこから依頼を受けて円滑な成仏を手助けするアフターライフサポートセンターの深川出張所。つまり、この地域でお亡くなりになった方は、この茶店にある冥界門を通ってあの世に行きます。私はそのお手伝いをさせていただいております。あ、自己紹介が遅れました。私は所長兼店主の夏喜と申します。
 
 早口で意味不明な事をまくし立てられた二人は、彩を添えて回る盆灯篭の灯りが更に嫌なものに見えてきて、益々居心地が悪くなった。
 
達吉   ……これ飲んだらお暇するか。
新之助  ですね帰りましょう。
夏喜   あのー、冗談ですから真に受けないでくださいね。
 
   計ったのではないが、二人は同時に嫌な溜息が出た。
 
夏喜   ところでお二人は何の言い争いをされていたんですか。
新之助  なにって……。
達吉   あ、忘れてた。この野郎。アレはお前らが持ちかけた勝負じゃねえか。いざ飛び込もうとしたら止めたのはどういう了見だ。
新之助  だからその場の冗談。ただのノリで言っただけです。それを真に受けて水かさの増した大川に飛び込もうとするなんて。私が止めてなきゃ今頃死んでました。
達吉   ふん。勝負はお前の負けだ。早く百両を出せ。
新之助  実際飛び込んでないし、生きてるでしょう。
達吉   それはお前が止めたからだ。その時点で俺の勝ちだ。
夏喜   ちょっと待ってください。二人だけが飲み込んでいて、こっちはちっとも分りませんが。
達吉   だからこいつが……。
新之助  単純馬鹿はもう黙れ。私が説明します。私は新之助と申します。木場で材木商を営む材前屋の跡取りです。
達吉   なにが後取りだよ。勘当寸前じゃないか。
新之助  やかましい(と達吉の頭を殴る)……今日、近所に住んでいる悪友達と飲み会をしてまして。酔いも回ってきた頃〝男が命を張れるモノは何だ〟なんて事を中の一人が言い出しました。家族のためとか女のためとか、お店者は店のためだとか。こいつは達吉といいますが、以前は腕のいい大工でしたが今は馬鹿なヤクザ者なんです。で、達吉が一家の親分のために死ぬ事はあっても、進んで死ねるのは金のためだと言いました。その場にいたのはこいつ以外皆裕福ですから、金のために死ぬなんて有り得ないって大笑いして。そしたらこいつがムキになりはじめて、挙句私に百両出せ。そしたら目の前で死んでみせるって。周りは死んで見せろって騒ぎ立て、私も百両出してやるから大川に飛びこめって冗談でいったら、こいつ私の手を引いて大川まで……。
達吉    で、飛び込もうとしたら新之助が情けない声を出して「ごめんなさい。冗談だからもうやめてー」って泣きながら俺を止めやがった。お前等ら堅気は命も張れねえのか。本当情けねえ。
新之助  達吉さんはそれが格好イイつもりなんでしょうが、止めなきゃ今頃お陀仏です。
達吉   それがどうした。死ぬのなんか怖かないぜ。
新之助  だいたい金のために死ぬなんて嘘じゃないですか。女の為でしょう。澄香さんの身請け代にするつもりだ。
 
 その言葉で達吉の顔色が変わった。そして手元のお猪口に視線を移すと黙ったまま横を向く。その態度が「その通り」だと告げていた。
 
新之助  私は達吉さんの、いや、達ちゃんの考え方が嫌いだ。仮にこんな方法で金を稼いで澄香さんを苦界から助けても意味がない。煽った私たちも悪かったが、どうにかして他の方法を考えろよ。達ちゃんの命と引き換えに自由を得られても、澄香さんは喜ばないぞ。
達吉   じゃあお前が助けてやれよ。お前んち金があるだろう。ヤクザって儲かるんだろうなって安易に考えてたけど全然駄目だ。俺はこの先どんなに頑張っても澄香の身請け料なんて稼げない。だから頼む。
新之助  なんで赤の他人の私が……
達吉   お前、澄香に惚れただろうが。
新之助  そ、そんな事実はない。
達吉   嘘付け。クドかれたと澄香から聞いたぞ。
夏喜   へえ、三角関係だったんですね。
新之助  違う嘘です。あの女が生きようが死のうが私には関係ないから。
達吉   なんだと、この薄情モノが。
夏喜   はい、喧嘩はやめましょう。
 
   夏喜が霊導帳を取り出して、あるページに目を落とした。
 
夏喜   ええと。達吉さんはもと大工ですか。で、お相手の澄香さんは商家のお嬢さんだったんですね。父親が作った借金で一家離散。でも達吉さんと澄香さんは夫婦になる……ハズだった。しかし達吉さんが些細な喧嘩で相手に重傷を負わせて……ああ~あ、島流しですか。それで刑期を終えて戻ってきたら澄香さんは男に騙されまくって宿場女郎になっていた。可愛そうに同情します。
達吉   な、なんであんたが知ってるんだ。
夏喜   この霊導帳に載ってますので。
 
   夏喜が砂時計を取り出し机の上に置いた。
 
夏喜   もう時間がありません。そろそろこの話に決着をつけて自覚を持ってください。いいですか、大川に落ちて濁流に飲まれて死んだんです。それを、この砂時計の砂が落ちきる前に思い出してください。でないと大変な事になります。
 
   達吉と新之助は顔を見合わせる。
 
達吉   ……こいつ、頭がどうかしてるぞ。
新之助  それに色々とおかいしい。
 
 ふたりは夏喜に訝しい目を向けた。
 
夏喜   なんです、その目は。
新之助  あはは。なんて答えたらいいんだろうなって。
達吉   ……冗談に、ついていけないと言うか。
夏喜   真剣に思い出してください。橋に行った後二人はどうしましたか。
達吉   どうって……俺が飛び込もうとしたらこいつが後ろから止めて……、
新之助  たしかに羽交い絞めにしました。
達吉   で、俺がそれを振りほどいた。
新之助  でしたっけ?思い出した。突き飛ばされたぞ。
達吉   やってない。
新之助  やったでしょう。
達吉   覚えてない。
夏喜   ああもう面倒くさいな。ちょっと待ってください。
 
 夏喜が店の奥から梯子を運んでくると「これ、橋の欄干の代わりです」と言いながら、達吉と新之助の前に置いた。梯子は橋を再現する道具である。
 
達吉   それでは再現してください。話しながら思い出すより体を動かしたほうが早く思い出せます。
新之助  ええと。これ橋のつもりですか? 嫌です。
達吉   お断りだ! そんな恥ずかしい事やれるか。
新之助  だよな。
達吉   付き合いきれねぇ。
夏喜   こっちとら残業でカリカリしてんだよ。早くやれよ、時間がないって言ってるだろ。新ちゃん達ちゃんは成仏したいよな。
達吉   ……何だか態度が変わってきたぞ。
夏喜   こっちは親切で言ってんだ。四の五の言わずにやれや。
新之助  マジで怒ってますね。や、やりますかね。
達吉   だな。やらないと帰れなさそうだし。
 
 二人は仕方なく橋での出来事を再現する事にした。
 まず欄干に手をかけて川に飛び込もうとする達吉を新之助が後ろから羽交い絞めにして欄干から遠ざけた。しかし達吉は新之助の左腕に噛みついて振りほどき欄干を越えようとした。
 新之助は右手で達吉の襟首を掴み力任せに引きずり倒す。
 そして欄干の前に立ち塞がった。
 この頃になると二人はマジになっている。
 
新之助  いい加減酔いを醒ませ。
達吉   うるせえ。早く金を工面してやらないと、あいつの体はッ。
新之助  なるほど、女の為か。
達吉   島から戻ってあいつの事情を聞いたとき、俺は澄香を逃がすつもりで女郎屋に忍び込んだ事がある。
新之助  ……
達吉   そしたら澄香が「俺の事は忘れたから、もう来るな」ってよ。それ聞いたら目の前が暗くなって、気がついたら女郎屋を飛び出していた。
新之助  それでどうしました。
達吉   俺はあの時「必ず迎えに行く」と澄香に伝えたかったのに、何もいえずに飛び出した。それでも助けりゃいいんだと心に誓って、俺は今まで頑張ったんだ。だがよそれも叶わなえ……だから。
新之助  事情は分ったけど。悪いが達ちゃん、私は金を出せない。自慢じゃないが私が使っている金は親の金だ。出来る事と出来ない事がある。
達吉   今までそれ以上の金を使ってきただろうが。
新之助  うるさい。馬鹿ッ。
達吉   ──こ、この薄情者ッ。
 
   腹がたった達吉は新之助に体当たりした。
   その拍子で新之助はバランスを崩し欄干から落ちかける。
 
達吉   あ、危ねえっ。
 
   達吉は新之助の手を握り親友の落下を必死に止めた。
 
──ここで二人を暗転ピン抜きに……
 
   そのとき濁流の嫌な音が響きだした。
 
達吉   しっかりしろ。
新之助  助けて怖い落ちる死にたくない。
達吉   すまん。カっとなってつい勢いが。じっとしてろ動くな。いま引っ張りあげる。
新之助  お願い助けてッ。手をはなさないでッ。
達吉   死んでも離はなすかッ
 
 轟音が二人を包む。
 突如無音になり全てが真っ暗になる。
 と同時に『ドボン』と、二人が川に落ちた音が闇に広がった。
 
   暫くの静寂……そして、
 
新之助  あ、落ちましたね。
達吉   落ちたな。俺たち、死んだ?
新之助  死んだのなら、ここはどこでしょう。
夏喜   今お二人がいる場所はあの世とこの世の狭間。江戸にある霊道の一つ、第二十七州崎冥界門前のお休み処、夏喜一時庵です。
 
   ──夏喜の姿が浮かび上がった……
 
夏喜   まことに残念なお知らせがございます。じつは本日亡くなるのはお二人の内一人だけです。
新之助  え?
夏喜   新之助さん。
 
   ──新之助にスポットライトが当たる……
 
夏喜   それは新之助さん、あなたです。
 
新之助  ええーッ、冗談じゃない。私は絶対に嫌だ。
 
   照明が元に戻る……
 
夏喜   ですが、達吉さんがここまで来たという事は、その死を入れかえることが出来ます。
新之助  それはどういう事ですか。
夏喜   達吉さんが新之助さんの死を引き受ける。つまりかわりに死ねば新之助さんは助かります。
達吉   そんな事が出来るのか。
夏喜   あなたが犠牲になればできます。
達吉   なら俺が死ぬわ。新ちゃんは生き残れ。
新之助  はあッ、そんな事できるわけないでしょう。
達吉   じゃお前が死ぬのか。これは俺が招いたことだぞ。
新之助  それはお互い様です。いくら放蕩息子で駄目駄目で親から役立たずのゴク潰しだと罵られてますが、達ちゃんを犠牲にするほど腐ってません。
達吉   そのかわり澄香を助けてくれ。
新之助  そうくると思いました。なら絶対にお断りです。それは達ちゃんの役目でしょう。大変でも難しくても意地でもやり遂げるのがスジでしょう。
達吉   なあ、俺の思いを知ってるだろう。
新之助  そ、それは知ってます。
達吉   澄香への気持ち、助けられない悔しさ、あいつへの後悔、自分の馬鹿さ加減。親友のお前はずっとそれを見てきたよな。それらもろもろ含めて俺の人生を買ってくれ。でさ、お前が買った俺の人生を、澄香に渡してくれないかな。
新之助  なんだよそれ。お前の人生なんかいるか、押し売りするな。
達吉   澄香のために役立ちたいけど俺には無理なんだ。でも新ちゃんなら出来る。俺の命で新ちゃんを助けるから、澄香を身請けして自由にしてほしい。
新之助  ふざけるなッ。
達吉   この通り後生だ。
新之助  やめろッ死ぬ奴が生き残る奴に頭下げるな。それ反対だろうッ。私が頭を下げるから達ちゃんが生き残れ。
達吉   新ちゃん。死にたいのか?
新之助  そんなことはない。けど、ゴク潰しの私がいなくなれば、お店の連中は、たぶん、喜ぶかなと……まあ、死にたいわけじゃないけどさ。
達吉   そんなくだらない理由で。
新之助  は、はあああ……
達吉   なあ頼む、後生だ。澄香を助けてくれ。
 
   達吉は地べたに頭を擦り付けた。
 
達吉   あいつだけが、澄香だけが、俺の、証なんだ。
新之助  ……証?
達吉   ご存知の通り、俺はロクでもない人間だ。そんな俺でも、マジで澄香にホレて、心から幸せにしててやりたいと思ったんだ。でもよ、あのときケンカなんかしなければ島に流されることもなかった。人を傷つけなきゃ澄香を嫁にできていた。女郎屋からあいつの手を取り、ムリにでも足抜けされせばよかった。とか……全部、たら、れば、で。幸せなんて微塵もしてやれなくて。後悔ばかりだ。でも、これなら澄香を少しは幸せに出来るかもしれない。もう、これしかない! だから、頼む。俺に死ぬ権利を譲ってくれ。
新之助  い、イヤだ。そんなのはひとり善がりだろ。
達吉   それはわかってる。ひと頼みで、なさけないのも承知してる。でもお願いだ。あいつを愛していた『証』をたてさせてくれ。
 
新之助  なんだよそれ。私の気持ちも考えろ……
達吉   お願いいたします。
 
   新之助の足に縋りつき「頼む、頼む」と懇願を繰り返すと、達吉は涙と鼻水だらけの顔をあげ、新之助を一心に見つめた。
 
新之助  そうか……
達吉   うん?
新之助  うっかり忘れてた……、
達吉   なにを……
新之助  馬鹿だ。やっぱり、馬鹿だこいつ。
達吉   新ちゃん……
新之助  もう少しうまく生きろよ、達ちゃん。
 
   新之助は何かが抜け落ちたように、膝をついて肩を落とした。
 
達吉   すまん……ありがとな。
 
夏喜   時間です。達吉さんでよろしいですか。
達吉   俺でいいが、ちょっと待ってくれ。書くものあるか。
 
 そう言われて夏喜は矢立てと紙を持ってきた。
 受け取った佐吉は紙の端に筆を走らせ、その部分だけ破り取って細かく折りたたむと、首のお守りを外してそれを中に入れた。
 
達吉   これを澄香に、渡して……
 
   そう言って、新之助に手渡そうとしたが、
 
達吉   やめた。未練だな。
 
   達吉はお守りを机の上に置いた。
 
新之助  い、いいのか?
達吉   ああ。
新之助  でも、澄香さんには……
夏喜   新之助さんに一つ忠告ですが。ここでの事は他言無用です。洩らせば閻魔様に呪われますからね。
新之助  え、マシで?
夏喜   マジもんのマジです。試しに誰かに話してみますか? 本気で酷い目にあいますよ。たとえば、あなたのお店が潰れて、首を括るしかなくなるとか……
新之助  ぐぇ……
 
 変な声がでてしまった新之助は、申し訳なさそうに達吉をみた。
達吉は「言わなくていい」と、うなずいた。
 
夏喜   達吉さん。時間です。飲んでください。
 
 夏喜は出された未練断ちの銘酒を一気に飲み干した。そして眼を閉じてゆっくりと天を仰ぐ。
 酒が効いたのか、達吉は晴れやかな顔をしている。
夏喜   それじゃ逝ってらっしゃい。よい「アフターライフ(死後の生活)」を。
 
 重厚なドアが開く音が夏夜の闇に響いた。
 冥界の門が出現し、金色の輝きに体を抱かれた達吉は、門に歩みを進めて、そのまま逝った。
 
   ──そして、また暗闇が生まれた……
 
 
第三場(同じ場面)
 
   晩秋の夕方、一時庵は秋色に包まれていた。
   夏喜は着物の袖を襷でたくし上げ鼻歌交じりで店じまいをしている。
 
夏喜   ん、誰か来た?
 
 春になれば艶やかな花をつけるであろう桜並木の小径を、新之助と女が連れ立って歩いてくるのが見えた。
 病み上がりなのだろうか。女の足は力なく覚束なかない様子だった。
 それを労わるように新之助が女の手を引いている。
 
新之助  夏喜さん、お久しぶりです。
夏喜   その人が澄香さんですか。
新之助  はい。
 
   新之助に紹介されると、澄香は微笑みながら頭を下げた。
 
澄香   御亭主、店の中を見ても良いですか。
夏喜   今日は早仕舞いなので何も出せませんが、それでもよければ。
澄香   ありがとうございます。
新之助  私も一緒に。
澄香   大丈夫です。ここから先は私だけで。
 
   新之助の腕から離れると、澄香は覚束ない足取りで片付けの終わった店内へ入っていった。
 
夏喜   彼女は病ですか。
新之助  医者に見てもらいましたが病名は分かりません。平衡感覚が悪いみたいでうまく歩けないんです。
夏喜   そうですか。
新之助  でも本当に店をやっていたんですね。
夏喜   あれは夜中の特殊な営業で、そのほかは普通に茶店をやってます。実は私、閻魔丁に労働環境の改善を要求したら配置換えされて地方に飛ばされそうなんです。労働基準監督署に訴えたい気分です。
新之助  なんですそれ?
夏喜   あ、わかりませんよね。じつは私、この時代の人間じゃありません。未来から生きた死神?(笑い)でも深く考える必要はありませんから。
新之助  また出たよ……。
夏喜   はい冗談です。それはさておき新之助さん、ここでの出来事は話してませんよね。
新之助  私が達吉に会った最後の場所だとだけ伝えました。でも……
夏喜   話したいですか。駄目です。
新之助  ……
夏喜   私はね、新之助さんが彼女を連れてここにくると思ってましたよ。ですから、あれをそのままにしてあります。
新之助  あれ、とは……?
夏喜   達吉さんは彼女に伝えたかった思いがあったハズです。それが伝わるか、私は見てみたいなと思いましてね。
 
澄香   あの、新之助さん。
 
 机に片手をついて澄香が力なく立っていた。もう片方の手は何かを握り締め、大きな瞳は新之助を真っ直ぐに見つめている。
 
澄香   私を助けても何の得もないのに、なぜ大金を払って身請けしてくれたんです。理由が分りません。
新之助  ええと。以前私はあなたに、少しちょっかいを出した事がありましたよね。ですからこれは……つまり、その時のお詫びです。
澄香   そんな些細な事でこんな事を普通はしません。
 
 澄香は握り締めていたお守りを新之助に見せた。
 冥界に行く前に机に達吉が置いたお守り袋だった。
 
澄香   達吉さんがいつも首から下げていたお守りですよね。どうしてこれがここに……
新之助  えっ。
 
   新之助が振り向くと、夏喜はにっこりと笑っていた。
 
澄香   以前達吉さんが女郎屋に尋ねてきたことがありました。その時私は冷たい言葉で彼を追い返した。それで縁が切れて二度と会いませんでした。でも達吉さんが新之助さんに頼んだんじゃないんですか。
新之助  ……
澄香   どうしてあの人が死んだ後に私を見受けしたんですか。二人の間に何があったんです。そうじゃないなら、どうして今更こんな事を……
新之助  それは……(言えない)
澄香   え、これ?……
 
 澄香はお守り袋に違和感を感じて、確かめるように袋の上を指で撫でた。護符とは別の物が入っている気がして、彼女は袋の紐を解き中身を確認した。出てきたのは折りたたんだ紙切れだった。
   澄香はそこに書かれた見覚える文字を口にした。
 
澄香   必ず助ける。幸せにな……
 
   文字はあっという間に涙で滲んで見えなくなった。
 
新之助  あの馬鹿は……達ちゃんは、ホントに命がけであんたの事を……だから、死ぬ前に頼まれて……
 
   新之助の言葉は途中で擦れてしまった。
 
澄香   ……やっぱり、そうなんだ。
 
   お守り袋と紙切れを両手で包むと、澄香はそれを胸におし抱いた。
 
澄香   ……ホント馬鹿。私は身請けされるより、あなたに幸せでいて欲しかった。だから縁を切ったのに。
 
   彼女がその場に蹲ると、小さな嗚咽が聞こえてきた。
 
新之助  ……
夏喜   伝わりましたね。それじゃ私はこの辺で。
新之助  え、どこへ行くんです。
夏喜   自宅に戻ります。今日は久々に早く帰れるんですよ。夜勤の予定が入ってないんで。
 
   「ごゆっくり」と告げると、夏喜は夕闇迫る桜並木の小径を歩く。すると、いつの間にかダキが夏喜の前に立っていた。ダキの姿は獣耳のそれではなく、どこにでもいそうな普通の町娘の姿だ。
 
夏喜   どうしました?
ダキ   へへへ。腹へった。なんか食べさせて。
夏喜   仕方がないなぁ。
 
   ダキは夏生の腕に絡みつく。とても嬉しそうだ。
   ──で、ふたりは夕闇の中を歩いていった。
 
新之助  私たちも行きましょう。
澄香   ごめんさない。あと少しだけ……
新之助  そうですか。
 
 澄香は涙で顔が上げられなかった。
 なので新之助は手拭を差し出したが彼女は受け取ろうとしなかった。仕方なく懐に手拭を戻すと、何となく気まずく感じる空気を誤魔化したくなり、彼は鮮やかに紅葉した桜並木に目をやった。
 舞い落ちた枯れ葉で秋色に染まる桜並木の小径を、夏喜とダキが鼻歌交じりで歩く後ろ姿が見えていた。
 新之助は黙ってそれを見送った。
 
                           終焉。

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