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ふたたび雪のなかで-1

 首都は涙を信じない

 そろそろ降下が始まるだろうかという頃、冬にしては珍しく眼下に街の灯がとたんに広がった。一体どこの街か、機内モニタの地図で見ても判然としなかったが、薄ら青と橙と、わずかに濃い紅を残した空にぼんやりと擁された街は、長い長いシベリアの横断に終止符が打たれようとしていることを示していた。慎重に冬の空を下っていく最中、機内も俄かに忙しさを帯びてくる。客室乗務員も乗客も、せわしなく機内を行きかい、凍土とともに凍り付いていたかのように思えた時間を急激に溶かしていく。ここまでくると、もうあっという間だ。
 ふと気が付いたときには、再び現れた分厚い雲を抜けて、際限のない平原にいくつかの道路が心許なく走っているのが見えた。何度も何度も、旋回しながらじわりじわりと高度を下げていく。一体どれが最後のターンなのかと何度も思ったものだが、道路を走る車がはっきり見えるようになってきたとき、ついに到着が近いことを悟った。
 空はぼんやりとまだ明るさを残していた。十分とは言えない地上の灯の助けを借りずとも、鉄塔と電線が行きかっているのがよく見えた。もう手が届きそうなほどに地上に近くなった時、突如として道路際に立つ薬局の広告が視界に飛び込んできた。書かれていた文字はキリル文字——言語は正真正銘のロシア語だった。思わず頬が緩むとともに、ふと瞼が軽く痙攣するような感触を覚えた。
 まもなく空港の設備が眼下に出現し、いくつかの機体が見えたのと同時に座席の下から突き上げるような衝撃が走った。冬場の凍った滑走路に降り立ったにしては随分と滑らかなタッチダウンである。無事の着陸に安堵してふと一息ついた時、ふいに空港のメインターミナルと、バックライトに照らされたオレンジ色の看板が目に入った。

 МОСКВА ШЕРЕМЕТЬЕВО ———— 小雪舞う窓の向こうに、確かにそれは見えた。ターミナルの構造も、1年9カ月前に見たそれと全く同じものであった。ずっとずっと、夢見ていた、また生きて戻ってくることができるとは到底思えなかった、愛おしい街に帰ってきたのだ。そう実感すると途端に目頭が熱くなり、視界が滲んだ。しかし同時に、きちんと入国できるまでは一切気を抜けないことを考えると感傷に浸っている場合ではなかった。当然ながら無事に入国ができたとしても、それ以降も数々の面倒や制約を乗り越え、生きて帰って来なければならない。
 随分と不便になってしまったこの国にまた降り立ってしまった不安が少しずつ押し寄せてきたが、やはり歓びに勝るほどのものではなかった。ゆっくりと機体が駐機場に入っていく瞬間も窓の外を眺めていた私の顔は、微笑んでいたと思う。

(つづく)

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