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初めてロシアに降り立った時の話

※この記事は東京外国語大学ロシアサークルの寄稿を念頭に執筆しています。ロシアサークルの方の記事はこちらです。



 成田空港から飛び立ったプロペラ機に揺られること2時間近く、遥か海原を超えた先に岸壁と陸地が見えてきた。一面の森林、ぽつり立つ見慣れない形の建物……「行商人」という民謡を聴きながら憧れの大地を見下ろしたあの時の感動は今もなお忘れられない。2年間、ずっと行きたいと思っていた地にいよいよやってきたのだ。

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 成田から一番近い海外の一つがロシアであることは案外知られていない。韓国は実際かなり近いのだが、台湾・中国本土・香港などと比べるとロシアの方が圧倒的に近いのである。もちろんロシアは非常に広大な国なので何事も一概には言えない。ここで指すのはいわゆる沿海州——極東ロシアのことだ。私が初ロシア上陸の地に選んだのはそこに位置するウラジオストクという町だった。

 かつては軍港を持つ閉鎖都市として外国人の立ち入りを一切禁じていたその町も、ソ連崩壊から30年近い時を経て一大観光地として発展しつつある。特に「東アジアから一番近いヨーロッパ」と称され、日中韓からの観光客から人気が高まっているのだ。

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 極東だから東アジアと混じりあうというわけでもない。そこにあるのは容赦ない「ロシア」そのものだ。街にはキリル文字が並び、多くの街の人は英語を理解しない。空港や駅、博物館の窓口で恰幅のいい女性にぶっきらぼうに凄まれるスリリングなイベントもきちんと存在する。

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 そしてこの街はただ「ロシア」なだけではない、非常に美しいのだ。湾を囲うように坂道が広がる街はソ連時代のさらに前、ロシア帝国期から極東部の重要な港湾都市として発展した。ケーブルカーで登った丘の上から眺める街の姿は絶景そのものである。

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 湾の入り口、街のはずれにあるトカレフスキー灯台もまた名所の一つだ。砂州の先にぽつりと立つちょっと古風な灯台には何だか少し愛らしさを感じる。

 しかし私がウラジオストクにやってきた最大の目的は観光というよりも鉄道旅のためだった。正確に言うとこの旅はウラジオストクで完結するものではなく、ここから一晩北に行ったところにあるハバロフスクを目指すものである。日本ではもう消えてしまった客車寝台列車に再び乗り、食堂車で流れる景色を眺めながらアツアツの料理を味わう。ロシアではまだまだそのような「贅沢」な鉄道風景が残っているのだ。

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 オケアン号は極東の二大都市であるウラジオストクとハバロフスクを結ぶ主要列車で、ある意味極東の看板列車ともいえる。経由するのはシベリア鉄道の末端区間で、ハバロフスクからさらに西に行くとモスクワに辿り着く。

 ロシアの長距離列車は改札口ではなく、各号車の乗車口で改札を行う。列車編成が長大なので基本的に1両に1人車掌が乗務しており、車内販売や車両ごとのドア開閉業務、掃除まで担当するのだ。今回担当の車掌は中年のおじさんで、慣れない手つきで機械を使って切符を読み取っている姿がほほえましい。

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 狭い廊下の中を抜けて自分の個室を探す。個室と言っても二段ベッドが2つ向かい合わせになった4人部屋で、カーテンもない。ちょっと防犯上不安に感じるかもしれないが、案外すぐに慣れるものである。個室には既に老婦人が1人座っていた。「こんにちは!どちらまで?」というのは旧ソ連圏の寝台列車では定番の挨拶で、たとえ相手が見慣れないアジア人でも「どこから来たの?」より先にこれを聞かれる。同じ寝台区画に乗り合わせた者たちは運命共同体であるとも言わんばかりに意気投合し、家から持ってきた食材を分け合うというのもよくある鉄道風景だ。婦人はハバロフスクまで乗車するということで、「英語は分からないんだけどね」と言いつつ身振り手振りで寝台の使い方を解説してくれた。

 列車が動き始めるとまず車掌が切符を回収しに来る。回収された切符は終着駅の直前で返却してくれるシステムだ。続いて食堂車から朝食のメニューを聞きに来る。今回乗車した2等寝台では朝食が無料でついてくるというサービスがあるのだが、唯一聴き取れた単語が「カーシャ(ソバの実のおかゆ)」だったためカーシャと答えておいた。

 さあ、それが終わるといよいよ食堂車の時間だ。列車の食堂車といってもメニューはかなり多彩で、何を注文しようかかなり悩んでしまう。悩みに悩んでボルシチと茹でた芋をチョイスした。

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 何を隠そう、これこそが私が人生で初めて食べた本場のボルシチであった。様々な制約のある食堂車で提供されるものとは思えないほどに美味で、その後食べた様々なボルシチと比べてもトップレベルのものだ。使う食材から具材の切り方まで、その後私が家庭で作るボルシチの原点となったものだ。芋はシンプルながらもバターとディルの香りが絶妙で、これもまた美味である。車窓が真っ暗なのは少し残念だったが、それでも食堂車を体験できた感動はひとしおだ。何よりレストランとしてのレベルがかなり高いのも素晴らしい。

 お腹も満足したところで自分の寝台に戻り、車掌さんに声をかけた。実は、寝台を離れる前に頼んでいたものがあったのだ。

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 ロシア人の血液は何か?と聞かれると「ウォッカ」と答える方は多いかもしれない。いや、実際そうなのかもしれない(その後そのような経験をしたので後述する)が、全年齢対象の血液がある。それが紅茶だ。特に列車に乗るとその様子はよくわかるもので、ほとんどの旅客は車掌にアツアツの紅茶を入れてもらっている。アツアツの紅茶のために車端部にはサモワール(給湯器)が備え付けられており、車掌のささやかな小遣い稼ぎとしてティーバッグを販売しているのだ。そしてその紅茶は「スタカン(間違っても人生をダメにする某酒缶のことではない)」と呼ばれるカップスタンドに入れて提供される。これが非常にかっこよくて、鉄道局ごとに微妙に異なる模様がウリなのだが実は列車によっては売ってくれるのである。オケアン号だと日本円でおよそ2000円弱で、少しかさばるがなかなかにいいお土産になる。

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 どうやらこの号車には積み込みがなかったようで、ほかの号車にまで回って探していただいたようだ。全力で「ありがとう!」と伝えると満面の笑みを返してくれた。不思議な話だが、ロシア語がほとんど何もわからない自分にもこの車掌の話すロシア語は何故だか理解できる気がした。

 気が付けばもう11時近く、興奮冷めやらぬ中ではあるが眠りにつくことにした。レールの音、たまに差し込む街灯の光を感じながらうとうとするこの感覚はたまらなく心地が良いものだ。

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 翌朝、目が覚めるとちょうど車掌が通り過ぎるところであった。すかさず紅茶を注文する。食堂車も素晴らしいが、朝焼けの大地を走りながらの飲む紅茶もまた美味しいのだ。そしてほぼ同時に朝食がやってきた。

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 こちらがカーシャだ。牛乳仕立てでほんのり甘いのだが、舌がバグを起こすのであんまり深く考えながら食べない方がいい。その方がきっとおいしく感じるだろう。おそらく、日本では存在しえない味だ。

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 朝食を食べ終わって一息つくともうハバロフスク郊外までたどり着いていた。一晩の旅はあっという間で、同室の老婦人とも別れの時だ。だがそれが列車旅の儚さをかき立ててくれる。寝台列車の旅というのはそういうものだ。最後に客車の乗降口で車掌に別れを告げてプラットホームに降り立った。

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 ハバロフスクに到着だ。やはり緯度が高いだけあって、ウラジオストクよりも幾分か肌寒い。駅前には市名の由来となった探検家エロフェイ・ハバロフの巨大な石像が聳え立っている。ハバロフスクはウラジオストクほどの人気さはないものの、閉鎖都市であったウラジオストクとは異なりソ連時代から外国人にも開放されていた都市として知られる。つい1年ほど前まで極東連邦管区の本部が置かれており、ロシア極東部の首都としても機能していた。

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 港町ウラジオストクを輝く黄金の街と例えるならばハバロフスクは整然たる銀色の街といえよう。雄大なるアムール川のほとりに立つ町はどこか寂しげで、それでいて落ち着いた美しさがある。個人的にはウラジオストクよりもハバロフスクの方がどこか安心感があって好きだ。

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 駅前からトラムと徒歩でアムール川のほとりまでやってくると青色に輝く教会が見えてくる。ハバロフスクの象徴的な建物でもあるウスペンスキー教会だ。ウスペンスキー聖堂といえばモスクワのクレムリンの中にあるものが有名だが、この屋根の引き込まれるような美しさにはモスクワにも劣らぬものがある。

 そのまま川沿いに歩くといくつか博物館や資料館、美術館が見えてくる。ロシアで一番楽しむべき「暇つぶし」はこういった場所を訪れることだろう。値段もさほど高くない上、内容もかなり充実している。その上日本ではなかなかお目にかかれない貴重な資料ばかりである。私がハバロフスクで一番見入ってしまったのはアムール川のすぐそばに立つグロデコフ郷土史博物館だ。

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 「郷土史」というだけあって内容は自然科学から古代や近現代史まで幅広い。4階建ての建物2つで一つの資料館というところからも規模の大きさが伺える。

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 その中でもソ連期の展示には目を見張るものがある。私がロシア史の中で最も興味があるのが近現代史というのもあって、どこを見ても充実の展示というほかなかった。ハバロフスクを訪れた方はぜひ足を運んでいただきたい場所である。

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 「暇つぶし」の手段として最も手っ取り早いのは街歩きだろう。起伏はあるものの、ハバロフスクの道は直線が多いので道には迷いにくい。

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 特にガイドブックも見ずに散歩をしているので基本的に行き当たりばったり。名所らしき場所にぶち当たってもそれはあくまで偶然である。ここは第二次世界大戦(ロシアではソ連時代から大祖国戦争と呼ばれている)の犠牲者を祀る慰霊碑で、絶やされることのないであろう永遠の炎がともっていた。これはおそらくハバロフスクやその周辺だけでこれだけの犠牲者を出したということなのだろう。ソ連は戦勝国でありながら大戦ではもっとも多い死者が出てしまったというのはよく知られた話だ。

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 慰霊碑の後ろに見えるのはスパソ・プレオブラジェンスキー教会で、ここもまたハバロフスクの象徴的存在である。

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 街歩きの最中、ふと通りの名前の上に「ウラジオストク」と書かれた標識が目に入った。ハバロフスクからの距離は約800キロ、東京から青森の距離にも匹敵するほどにも関わらず何食わぬ顔で書かれているロシアのスケール感には困惑させられる。

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 街歩きに疲れたら中心部にあるディナモ公園で一休み。木々に包まれた巨大な公園で、これまた巨大な噴水がひときわ目を引く。園内ではロシアの国民的アニメ「チェブラーシカ」のキャラクターたちに出会うことができた。

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 ハバロフスク駅前にはトラムの電停がある。外観も車内もかなりおんぼろなように見えるが、一体いつから走り続けているのだろうか。案外こういうものに限ってそんなに年数が経っていなかったりもするのだが。

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 ハバロフスク滞在は0泊1日。名残惜しいが、来た道をそのままウラジオストクに戻る。列車も行きと同じオケアン号で、今夜は3等寝台に乗車する。2等寝台と違い完全開放型の寝台で、防犯面の不安がますます増したようにも見えるが、実際は周りの目があるので案外落ち着くことができる。なにより2等寝台だと同室の人たちとコミュニケーションを取らなければならないので(それはそれで楽しいのだが)その点でも3等の方が楽かもしれない。

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 今夜も食堂車のお世話になる。昨日自分の乗った号車を通り抜けると例の車掌が引き続き乗務しており、笑顔で挨拶を返してくれた。やはりこの車掌の話すロシア語はどことなく理解できる気がした。

 食堂車では少し迷ってから昨日と同じボルシチを注文した。ほかにもメニューはいろいろあるのだが、迷うくらいなら確実においしいものをという算段だ。そんな時、横のグループの1人から声をかけられた。ロシア人のお兄さんたち3人で、ハバロフスクに住んでいるのだという。ロシア語を勉強しているというと興味津々な様子で、私の持っていたロシア語単語帳を開いて「ウォッカ」の部分で爆笑するという陽気な人たちである。

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 ただ笑うだけではない。満面の笑みで「せっかくロシアに来たんだから」といわんばかりにソレを勧めてくるのである。写真にあるペットボトルから液体を注いで飲んでみな、と差し出してくるが、これだと水にしか見えない。飲んでみると本当にウォッカなのでまったく「水ちゃん(実はウォッカは水という単語の愛称のようなものなのである)」とはよく言ったものだ。

 ふと彼らが横のテーブルの2人組に声をかけた。なんでも1人が日本語を喋るのだという。その人はハバロフスクの日本語学校で3年ほど日本語を学んだという初老の男性で、私のテーブルの酔っ払い連中とは違って寡黙な人だった。日本から1人でやってきた私に「ロシアは危ないですよ」「本当に危ないです」「気を付けてくださいね」とひたすら語り続けてくれたのが印象的だった。幸い私は未だにロシアで恐ろしい目に遭ったことはないが、そのロシアは表層にすぎない。混沌のソ連時代を生きてきた彼の言うことはおそらく、本当なのだろう。初めてのロシアでこの言葉を聞くことができたのも何かの運命かもしれない。

 夜も更けたので彼らと別れを告げて、自分の寝台へと戻る。目が覚めるとウラジオストク近郊の海沿いを走っていた。800キロといえども夜行列車ならあっという間、つい2日前に発ったばかりのウラジオストクに再び戻ってきた。あとはもう、日本に帰るのみである。

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 ロシアには様々なステレオタイプが存在し、総じて怪しいというイメージを持たれる方が多いだろう。しかしながらロシアとはなかなか一概に称することができない国である。それはかたや酔っ払いにウォッカを勧められ、かたやロシアの危険さをひたすら(日本語で)説かれるという混沌とした状況が起こりうることからも分かるだろう。ただこの混沌こそがロシアの魅力だと思うし、ロシアに引き込まれてしまう要因の一つだと私は思う。私の初ロシア体験は極東のほんの一部でのほんの数日にすぎなかったが、そこで得たものはその後のロシア・スラヴ世界旅に確実に大きな影響を与えている。昨今の混乱の中、出国どころか家の外に出ることすら憚られる日が続くが、この状況が治まった日には必ずやまたロシアを旅したいものである。

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(おわり)

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