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こんにちは モスクワ

 「なあ大丈夫かこれ」

 「いややべえだろ うおお」

 大学生にもなる男2人が、機体が大きく揺れる度に座席のひじ掛けを強く握りしめていた。窓の外には凍てつくような森と、郊外の田園地帯がぽつりと見える。幸い機内は程よく温められているが、外は激しい冬の嵐真っ只中らしい。

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 中国国際航空909便は北京を出発して7時間あまり、隣国といってもその首都どうしはかなりの距離を隔てている。周囲には大量の”人民”と幾ばくかのロシア人、そして我々のごとく安切符に飛びついたのであろう日本人の姿もぽつりとあった。

 「外見える?写真撮ってくれない?」

 そう話しかけてきたのは通路を挟んで向かい側に座っていたご婦人だった。彼女とは狭い機内で数言話す仲になったのだが、互いに我々については中国語学習者であること、そして彼女については中国語母語話者であるが日本語を十分に解することを伝えあっていた。

 「ああ、はい、いいですよ」

 窓側に座っていた私は友人を介して彼女のスマートフォンを受け取り、パシャリと数枚。おおよそ上に載せた写真と相違ないはずだ。

 「それにしてもよく揺れますねぇ」

 確か、スマートフォンを彼女の手に返す際にそんなことを口にした気がする。なにかしら荒ぶる気流に対する恐怖感を誰かしらと共有しなければ、どうも気が紛れないと感じたからだろう。それについての彼女の返答を私は覚えていないが、それなりに体格もしっかりとした男2人が座席にへばりついている姿を見て彼女が苦笑いしていたことはよく記憶に残っている。まったく、恥ずかしい話である。

 「じゃあおれは曲聴いてるから、また着陸してからな!」

 もう間もなく降りるだろう、そう信じて私は耳にイヤホンを装着した。たとえ友人がいても着陸時には必ず同じ曲を聴く、このルーティーンだけはきっちり守らないと落ち着かないのだ。飛行機は滅多に落ちない、だから着陸時に聴く曲は生還すれば「必ず無事に降りられる曲」という意識が心のどこかに根付くし、万が一落ちたら次はないので関係なしというわけだ。

 この曲はMiliのNine Point Eight——歌詞の内容を知っている方は「着陸時になんて不穏な!」と思われるだろうが、それがいいのだ。徐々に大地に向かって降りていく、どこか曲の世界観にもマッチするような情景が窓の外に広がる瞬間がたまらなく好きだ。

 曲で心を少し落ち着けつつ、揺れる窓にかぶりつく。視界はかなり悪く、灰色の帳に森が消えていく様子を見ることが精一杯だった。分かったことは、どうやら憧れのモスクワの姿はまだ遠いらしいということ。本当にここはモスクワなのだろうか、本当に辿り着くことができるのだろうか、実感が湧かないゆえに不安感も増すばかりだ。

 そんな気持ちとは裏腹に、着陸は不意に訪れるものである。この散々な揺れも視界の端から徐々に空港施設が見え始めるともうすぐにおさらば、少し強めの着地に耐えればほっと一息生還である。イヤホンを外し、友人に一言「やっと着いたなあ」と声をかける。ここでのやっとは、北京からの7時間のうちの主に最後の30分であることは言うまでもないことだ。

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 滑走路を抜けてターミナルへと向かう間、狭い椅子とはいえ7時間思い思いに過ごした空間の整理に取りかかる。人民たちは今にも立ち上がって棚の荷物を取り出さんとする勢いだが、流石にその流れには乗らずに座席前ポケットに突っ込んだ諸々をまとめることが先だ。そんな時ふと窓の外に目をやると、思わず全身に鳥肌が立つような光景があった。

 そこに広がっていたのは、吹雪のもとで氷雪に覆われた誘導路であった。このような環境下でなんとか着陸をしたということ、また今日から数日間この環境下で生きていくということを考えると心底寒気がしたものだ。

 「こんにちは、モスクワ」———彼の都市が私に与えた第一印象は、あまりにも手厳しいものであった。

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 しかし感傷に浸っている暇はない。隣のご婦人に別れを告げてあとは人民に紛れて入国審査の列に並び、無事入国すると受託手荷物(これが面白いくらいに出てこないのだ 人民の荷物が異様に多いことも理由の一つだ)を待ち、鬱陶しいタクシーの客引きを潜り抜けてアエロエクスプレスの駅までたどり着いた時にはかなりの時間が経っていた。

 モスクワ時間では18時30分、ところがこれが北京時間だと23時30分となり、日本時間を考えると24時30分ときた。一抹の眠気を抱えながら列車の椅子に腰を下ろす。窓の外の景色はおしなべて闇であり、疲労もあって車内でのことはろくに覚えていない。列車が起動してもなお、本当に「あの」モスクワに辿り着くのかということを疑わずにはいられなかった。

 途中、окружнаяアクルジュナーヤという駅に停車をした。列車はモスクワ都心部にある終点駅、ベラルスキー駅まで停車をしないと思い込んでいたので意外に思う反面、もしかするとここで降りると宿に近いのではということを思い至る。結果はその通り、ここで地下鉄に乗り換えると一駅先に宿の最寄り駅があったのだが、時すでに遅し。列車の扉はもうまもなく閉まろうとしていたところだった。その時の私は疲労もあって、この判断ミスを心底悔いたものだが、結果的には「初モスクワ」の夜に都心部に(たとえミスゆえによるものだとしても)出たことは正解だったのだ。

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 окружнаяアクルジュナーヤ駅を出るとかなり都心に近くなるが、線路は切通を通るため景色は相変わらず良いものではない。あまり「モスクワ」という実感も湧かないままに列車は終点、モスクワ・ベラルスキー駅に到着した。

 列車を降りるとそこは吹きさらしのプラットホーム、随分と身構えて降りたものだが、防寒具をしっかりと着込んでいたこともあって想像ほどの寒さではなかった。ところどころ凍った床面に気を配りながら、駅出口を目指す。

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 人の流れを見ていると、どうやら駅舎には入らずに外に出るらしい。むしろ駅舎に入ろうとすると安全検査を受ける必要があり厄介なのだが、ひとまずどんなものかと駅舎を見上げたところ———思わず感嘆の声が漏れた。

 青緑色の駅舎が電灯に照らされ、静かに輝いている。駅は暗いように見えてかなり賑やかで、しきりに案内放送も流れている。ようやっと、活き活きとした街の姿に出会えた瞬間だった。

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 ベラルスキー駅、その名の通りモスクワの中でもベラルーシ、そのさらに西のヨーロッパ各地を結ぶ列車が発着する駅だ。長距離列車用のプラットホームにはベラルーシ国鉄の列車が長大な編成を従えて停車をしている。

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 続いて小躍りしながら駅の正面側へと回る。そこは小雪舞う中、裏側よりも随分と明るく照らされた瀟洒な駅舎の姿があった。そして駅前を照らす街灯の下を行きかう人々、立ち並ぶ小さなビルの数々……ああ、ようやっと、想像していた「モスクワ」に辿り着くことができた。その時に全身がぞわりとしたのは、きっと寒さのせいではないはずだ。

 「こんにちは、モスクワ」———厳冬の首都は、厳しさのみならず、しっかりと私の憧れにも応えてくれたのだった。

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(おわり)

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