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緑の国・ベラルーシの「自由」とは

 ベラルーシが話題になっている。ロシアの西、ウクライナの北側に位置し、それら二国とともに東スラヴ三国を形成するベラルーシは緑に包まれた美しい国だ。一方で日本での知名度は低く、特にどこに位置しているのかなどといったことはあまり広く知られていないのが現状である。

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(↑首都ミンスク郊外の国立図書館屋上から 街のすぐそこまで深い森が迫る) 

 なぜ今ベラルーシの名が知れ渡ることになったのか、それは残念なことにあまり良い理由によるものではない。Twitterのタイムラインを見れば「独裁者」の名が踊り、加熱するデモ活動の映像が流れてくる。そう、「緑の国」という美しい愛称のほかに「ヨーロッパ最後の独裁国家」という非常に不名誉な呼ばれ方を(主に西側諸国から)されるのがベラルーシなのだ。

 アレクサンドル・ルカシェンコ。ソ連崩壊から3年ほどで見事大統領に当選、その後あらゆる手を使い憲法改正、不正な選挙を行うなどとして今の今まで25年以上その地位に居座り続けている。彼の行いは大統領の椅子を頑なに手放さずにいるに限らず、様々な奇行に出ることで知られている。首都ミンスクに駐在する在外公館の人間を突如として追い出したり、IMFに散々喧嘩を売った挙句に経済危機で融資を申し入れたり、自らが愛してやまないアイスホッケーのためのスタジアムをわざわざ建設したり、昨今世間を騒がせる口にするのもおぞましい病毒(以下「例のアレ」とする)の対策では「ウォッカを飲めば大丈夫」と日本のインターネット住民が語るジョークのようなことを大真面目に発言した上で自らが「例のアレ」を発症するなど、まるでフィクション作品の登場人物のような「伝説」を次々と作り続けている。

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(↑ポーランドとの国境に接する地方都市ブレストに今も残るレーニン像)

 加えて特徴的なのはその政策で、隣国ウクライナが「脱ソ連」を掲げるのに対してルカシェンコはソ連に懐古的な態度を示し、ソ連建国の父であるレーニン像の保存やソ連時代のものをオマージュした国旗・国章の新規制定などを行っているのだ。

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(↑ルカシェンコが「国民投票」で制定した国旗・国章)

 ベラルーシでは殊に政治に関しては自由がない。民主主義を語り、表向きには幾分「普通」の選挙を行っているように見えるが、実際は立候補の段階で対立候補は出馬資格を与えられず(香港問題でしばしば登場するいわゆる「DQ」というやつである)、選挙管理委員会でさえルカシェンコの掌のうちにあると言われている。一方で2015年の大統領選では隣国ウクライナでのユーロマイダン革命という出来事に直面したベラルーシ国民の衝撃、そしてその調停におけるルカシェンコの活躍が認められたことにより、公正なうちにルカシェンコが勝利を収めた。

 しかしながら今回の選挙は見ての通り大混乱である。どうしてこうなったかといえばやはり「例のアレ」対策だろう。大統領選を控えた2020年、先述の通りルカシェンコは「例のアレ」に対して科学的知見を完全に無視した施策をとった故に国民(特に若者)の不満を増加させてしまった。SNS上では«Саша3%»というタグ(Сашаとはルカシェンコの名であるアレクサンドルの愛称系で、「オメー国民の3%にしか支持されてねーぞ」という強い皮肉を込めている。もっともルカシェンコの地方都市・農村での支持基盤は今でも強固であり、支持率3%というのは流石に誇大表現であると思われる)のもとにルカシェンコ批判やそのことに関するコラ画像が流れ、ミンスクにある反ルカシェンコ的なグッズを販売する商店«symbal.by»が閉店に追い込まれた際には店の前に長い行列ができた。

 そして迎える今回の選挙である。普段なら有力な対立候補をDQしてしまえば済むことだが、今回はそうもいかなかった。この辺りの事情はベラルーシの政治体制を知るためにはうってつけの名著『不思議の国ベラルーシ:ナショナリズムから遠く離れて』(2014年 岩波書店)の著者である服部倫卓氏による記事が非常に分かりやすいので以下に紹介する。

 ざっと要約するならば「ルカシェンコの対立候補として立候補しようとした男性がDQされた上になんと逮捕までされる」「その妻であるチハノフスカヤ氏が夫の解放と再度の選挙実施を公約に立候補」「選管は主婦だからとナメてかかりDQせず立候補を承認」「すると思ったより勢いが強かった」というこれまたなんともフィクション小説のような展開だ。

 そのような普段とは異なる毛並みを見せた選挙の結果はルカシェンコの圧勝で、彼の得票率は驚異の80%超えであった。しかしこの結果はどう考えても信用できるものではなく、SNS上には様々な不正を疑わせる具体的な証拠画像や映像が出回りつつある。以下にその例の1つとしてVimeoのリンクを貼る。

これはミンスクの投票所で選挙監視委員会の女性が「怪しい袋」を持って、警察の監視のもとに梯子から降りてくる姿を捉えたものだ。袋の中身はお察しの通りだろう。

 このような露骨な不正に対し民衆の怒りは爆発し、ベラルーシ全土でデモが発生、逮捕者や負傷者が多数発生(死者に関しては記事執筆中である8月11日現在正確な情報は入ってないが、反政府メディアは死者発生を伝えている)し、ミンスクは街を囲む大環状道路МКАДを基準に封鎖された。さらにインターネットは大規模な断絶が発生、ベラルーシにサーバーを置くサイトが繋がりづらくなっている。ベラルーシに鉄道旅に出る私がよくお世話になるベラルーシのサイトといえばやはりБЧ(ベラルーシ鉄道)の公式サイト( https://www.rw.by )であるが、こちらも8月11日現在繋がらない状態が続いている。この断絶ゆえに正確な情報は掴みづらく、話題の立候補者チハノフスカヤ氏が選挙管理委員会に抗議に出向いた際に拘束された/解放されたなどという重大なニュースが錯綜している状況だ。

 さて、ここまでベラルーシに関することを読まれたあなたはベラルーシに対してどのような印象を抱かれたであろうか。やはり北朝鮮や中央アジアの独裁国家であるトルクメニスタンのように強い閉塞感を持った国家か、もしくは中国のようにある程度の開放はされているものの町中にプロパガンダのポスターが掲げられた国家か、そのような姿を思い浮かべられるかもしれない。

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(↑中国のプロパガンダポスターの中では最も著名と思われる「社会主義核心価値観」は3日間中国にいれば少なくとも50回は目にすることになるだろうし、その他バラエティに富んだ様々なスローガンが出迎えてくれる)

 しかしベラルーシはそのどちらでもない。まず日本のパスポートを持っていれば空路でミンスクに降り立つこと(ただしロシア経由となるとこの限りではない)で30日間のビザ免除となる。私はベラルーシには陸路国境を跨いで入ったことしかないので律儀にビザを取得しているが、取得自体は少々面倒であってもさほど困難なことではない。詳細は以下の2つの記事を参考にしていただきたい。

 ベラルーシに入国した後も別にガイドという名の監視者が随伴する必要もないし、国内では好きなように観光することができる。何より街には中国のようなプロパガンダ精神溢れるポスター・スローガンはほとんど見当たらない(なぜか書店にはルカシェンコの顔写真が貼っている場合があるが)のである。それだけではない、旧ソ連圏では信じられないレベルで街が明るく清潔で、なおかつ治安が非常に良いのだ。はっきり言って旅行者という立場からすると東スラヴ三首都の中では最も居心地がいい。それは非常に強権的な独裁体制のもとでしばしば見られる「作られた綺麗さ」では決してなく、人々の暮らしの中からごく自然に生まれた風景なのだ。

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(↑ミンスク中心部のニャミハ地区に位置する公園から)

 首都ミンスクであっても平和な雰囲気が広がっているのだが、地方都市となるとさらに長閑で快適な雰囲気となる。私が訪れたベラルーシの地方都市はポーランドとの国境に立つブレストという街だが、1晩だけで去ってしまうのがあまりにも惜しい街だった。この街でも今はデモ隊と治安部隊の衝突が起きているという。

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(↑ブレストの目抜き通りであるサヴェツカヤ通り)

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 ミンスクで印象的な出来事があった。上の写真はミンスク中央駅から程近い場所にある大統領府(※8/14訂正 こちらの建物は大統領府ではなく国会議事堂となります。お詫びして訂正致します。)で、バリバリ現役の政府機関だ。通常、このような建造物を旧ソ連圏で撮影しようとするならば細心の注意を払う必要がある。官憲に静止され職質を受けたり、場所によってはなぜか一般市民から注意を受けることすらある。それにしても立派な建物だったので護衛の軍人が目を逸らした隙に一枚撮ろうとカメラを構えたその時、軍人が視線を再びこちらに戻しうっかり目があってしまったのだ。しまった、と思った時には軍人が歩き出していたのだが、なんと彼はこちらに寄って静止を求めるのではなくその場を立ち去り邪魔にならない場所に移動してくれたのだ。これには本当に驚いた。これはあくまでこの軍人1人の行動であり、その他の護衛に咎められる可能性も十分にあるので積極的な撮影は推奨しない。それにしてもこのおおらかさは他の旧ソ連国ではなかなか感じられなかったことだ。

 「ベラルーシでは政治に口出ししなければ平和に暮らすことができる」という意見を耳にしたことがあるが、実際その通りだと思う。あくまで「よそ者」の私だが、政治に逆らおうとしなければ窮屈さなど感じないものである。通常時であればLINEもTwitterもFacebookも問題なく利用することができるし、よほど反政府的なことを調べようとしなければインターネット検閲を実感することもない。だからこそベラルーシは「ヨーロッパ最後の独裁国家」と呼ばれながらも確実に安定を保っていたのだろう。これはしばしば勘違いされがちなことだが、強権的に全てを抑圧することだけが「独裁」ではないのだ。私はルカシェンコの野党弾圧に賛同しようとは全く思わないが、ベラルーシが日常的に抑圧の閉塞感に包まれた雰囲気のもとに存在しているというのは完全なる誤解だ。

 しかしながら同時にベラルーシの人々がなんの不満も持たずに生きていたわけではないというのもまた事実だ。経済不安、ロシアとの関係、そして民意を反映させようとせず奇行に走る「独裁者」の存在。それについて現地の人々がどう思うか、これに関してはよそ者が街の雰囲気を以って感じられるものではない。やはり水面下でこのフラストレーションは確実に高まっていて、それが爆発した結果が今回の選挙での投票行動(今回の大統領選では80%を超える非常に高い投票率を記録した)とその後のデモに現れていると考えられるだろう。

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(↑ブレスト中央駅を跨線橋から 開放的な街といえども一方で未だに旧共産圏特有の陰鬱とした空気もまだまだ存在している)

 ベラルーシが今後どうなるか、デモが始まったばかりの現状では何ともいえない。しかしデモの過激化を知らせる情報も見受けられ、ユーロマイダン革命前夜を思わせる予断を許さない状況だ。どうか平和裡のうちにこの混乱が収束し、かつベラルーシの人々が望む「自由」が民衆の手に入ることを祈るのみだ。一方でその新しい「自由」によってベラルーシの社会、そして街の雰囲気がどのように変化していくのかということもまた考えなければならない。西側社会が語るような「自由」と「民主主義」は果たしてベラルーシに幸せをもたらすのか、はたまた不幸をもたらすのか、注目である。

 最後にもう1つ、私がベラルーシで出会った印象的な出来事を紹介して本稿を締め括りたい。ミンスクからオデッサに向かう列車でベラルーシを離れたときのことだ、国境で警備隊の係官からこのような質問をされた。

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 「なんで…なんで2回もわざわざベラルーシにきたの?」

 私は一瞬固まってしまった。怪しいことを疑われたからではない。係官は優しげで気品のある中年女性で、国境警備隊にありがちな圧迫感などどこにもなかった。それでもそう聞かれると返答に困るものである。

 「美しいからかな…街も、自然も」

 私はおそらくそう答えたように思える。焦っていたので詳しいことはあまり覚えていないが、「美しい」という単語を使ったのはよく覚えている。

 「楽しかった?ベラルーシは」

 彼女の質問に私はさらに固まってしまった。

 「いや、そのね、あなたのようにこうやって日本から2回もベラルーシに来て、しかもこんな国境から出ていく人が珍しくて……純粋に気になるのよ」

 さらに彼女はそう続ける。その瞬間、私は感極まり完全に言葉を詰まらせてしまった。なんと言っても高校時代から憧れていたベラルーシだ、その上で様々な素晴らしい体験までしたのだから、楽しかっただけでは済まされない。しかしそれを突然ベラルーシ人に聞かれてしまうと、あまりに感極まりすぎて言葉にできないのである。

 「ええ……楽しかった!素晴らしかった!ベラルーシ…大好きです!」

 私はぎこちないロシア語でそう答えた。ロシア語力がなかったというより、もはやそう答えるので精一杯だった。

 「そう、それはよかった」

 彼女は満面の笑みでそう返してくれた。きっと私の思いが伝わったのだろう、そう信じている。

 そのような感極まる会話の後に税関係員に「ベラルーシは何回目?2回!?友達とかいるの?いない!??あとなんでウクライナから来てウクライナに出るの???」とドン引きされてしまったのは内緒である。もっとも、そのような係官の方が一般的な旧ソ連圏においてはごく自然な反応なのだが。

 何はともあれ、今はベラルーシに平和に渡航できる日が訪れることを待つばかりだ。いつの日かまた、彼の国の人に「ベラルーシが大好きです」と伝えるために。

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(おわり)

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