見出し画像

ブレストからミンスクへ列車で行く話

↑前回 ワルシャワ~ブレストの乗車記

 日本で「ベラルーシ」という国の名前はいったいどれほど認知されているのだろうか。ポーランド、ウクライナ、リトアニア、ロシア・・・周辺国が一定の知名度を誇っているのにも関わらずベラルーシだけぽっかり開いた穴のように見過ごされてしまいがちである。そしてもしベラルーシを知っていたとしても、あまり良いイメージを持たれている方は少ないかもしれない。というのも、ベラルーシは「ヨーロッパ最後の独裁国家」というあまりにもインパクトが(悪い意味で)強い異名を持つからだ。その国家を動かす「独裁者」は名をアレクサンドル・ルカシェンコといい、1994年の大統領選に当選して以来現在に至るまでその座を譲らない。数々の奇行や衝撃的な発言が度々波紋を呼んでおり、つい最近も例の忌々しき感染症について「ウォッカとサウナで撃退できる」という極めて革新的かつ科学的な素晴らしい発言が話題になった。その中でも特に彼の特異な政策として取り上げられるのは数々の親ソ連的政策である。特に隣国かつ兄弟ともいえるほど繋がりが深いウクライナに代表されるように、多くの旧ソ連国家が反ソビエト的な主張を行っているのに対してベラルーシはルカシェンコの方針で親ソビエト的な方針をとっているのだ。他国ではソ連崩壊の象徴として引き倒されたレーニン像もベラルーシではまだまだ健在だ。

画像1

 「独裁」「親ソ連」という二要素があればベラルーシという国の印象が悪化するのも残念ながら無理もないかもしれない。だが実際にベラルーシの市中に弾圧の恐ろしい空気が漂っているかと言われたら、案外そうでもないのである。外国人はビザさえ取れば国内は単独で自由に行き来できるし、街は明るく活気があり、それでいて非常に美しく清潔なのだ。

 ————私が1年半近く放置していたこの記事の下書きにはそう記されていた。ベラルーシが比較的東スラヴ諸国の中では地味であることはおそらく(この下書きを放置した)当時とさほど変わらないだろう。また現在も渡航ができない状況が続くためこれについては希望的観測になるが、街は今もきっと清潔な状態が保たれているだろう。しかし問題は、かの国における「自由」がいかに変化したかということだ。

 この1年半、特に昨年の夏にベラルーシにいったい何が起こったのか。詳しくは上にリンクを貼った記事を参照していただきたい。もっとも、これは混乱が起きた初期に記したものなので、その点だけはご留意いただきたい。情勢は日々、刻一刻と変化している。

 ざっくりと何が起きたのかというと、先述の「独裁大統領」たるルカシェンコが露骨な不正選挙をやらかし、さすがに我慢の限界を迎えた国民たちが怒り心頭、大規模なデモに発展したものの、当局はそれらの反発に弾圧を加え……ということである。あれから1年近く時が経つが、残念ながら状況は一向に改善する気配がない。それどころか、ご乱心のルカシェンコは今年の5月にとんでもないことをやらかしてしまう。

 私もこのニュースを最初に目にしたときは何を言っているのかさっぱり理解できなかった。というより、脳が理解することを拒んでいた。「ギリシャ・アテネからリトアニア・ビリニュスに向かう国際線の飛行機がベラルーシ上空を通過中にベラルーシ当局から虚偽の警告を受けてミンスクに緊急着陸、着陸先で搭乗していたベラルーシの反体制派を拘束」などという三流のフィクション小説でもやらないような展開を、ベラルーシは本当にやってのけたのである。もちろんこのことについて欧州諸国から猛抗議を食らい、航空機乗り入れ制限という制裁を受けることとなる。

画像9

 (ブレストの宿でテレビを付けたらちょうどルカシェンコの姿が)

 このように、私がベラルーシを最後に訪れた2年前の夏とはどうしても情勢が変わってしまったことは否めない。しかしながら「ベラルーシは恐ろしい独裁国」という印象が根付いてしまうのはとても残念でならないし、そうしてはいけないと私は強く感じている。確かに「独裁者」はどうかしているかもしれないが、旅行者としての過ごしやすさは東スラヴ三国の中では一番であった。美しい緑の森、清潔で過ごしやすい街、親切な人々———これらの魅力を「独裁国家」の一言で片づけてしまうのはあまりにも勿体ない。よってこれ以降に記すベラルーシ旅行記においても、当時感じたベラルーシの姿そのままご紹介したいと思う。いつか平和に、彼の国に渡航できる日々が帰ってくることを今はただ祈るばかりである。

画像2

 前置きが長くなってしまった。今回の旅の始まりはポーランドの国境に接する街・ブレストだ。国境というとどこか殺伐とした印象を受けるかもしれないが、そんな緊張感からはかけ離れた穏やかで閑静な街並みには、どこか安心感すら覚えるものである。

画像3

 川沿いは美しい公園として整備され、散歩もよく捗る。さすがにこの川の対岸がポーランドということはないが、ここに飛び込んでちょっとばかり下れば国境河川にたどり着く。そんなことをする命知らずは滅多にいないだろうが、それにしてもこの無防備な柵は国境の街であることを忘れさせてくれる長閑さだ。

画像4

 ブレストの居心地の良さは海外では断トツだが、ザ・地方都市といった趣で、特にこれといったアミューズメント施設も少ない(そこを含めての「居心地の良さ」ではあるのだが)。そんなブレストを代表する名所といえば、やはりブレスト要塞だろう。第二次世界大戦の際、西部から侵攻してきたドイツ軍を完全に食い止めることはできなかったものの、果敢に抵抗し足止めを食らわせたことでブレストはソビエト連邦政府から「英雄都市」の称号を受けることとなる。

画像5

画像6

 その当時の要塞が戦争遺構としていまも丁重に保存されている。これが想像以上に広域なので全てを見ようとすると一日がかりになるが、慰霊モニュメントとして後世になって建てられた巨大な建造物は必見である。

画像8

 たまらなく居心地の良いブレストを離れるのは名残惜しいが、これからベラルーシの首都・ミンスクへと旅立つべくブレスト中央駅へと向かう。コッテコテのスターリン建築にソビエトのレリーフが飾られているのが見どころである。それでいて掲示されている言語はベラルーシ語なのだから、何とも不思議だ。

画像7

 (青色に白帯で統一された客車がつらなる姿はなんとも美しい)

 実は切符は前日の昼に駅の窓口(カッサ)で確保しておいたのだが、その際に発券されたのは座席……ではなく「寝台」だった。この列車はブレストを昼の11時57分に出発し、4時間半ほどかけて終点のミンスクを目指す。それだけの列車なのだが、なんと客車は立派な寝台車。これが間合い運用なのか、それともわざわざ座席車を用意する方が面倒で金がかかるからこうしているのかは謎である。それでいてお値段は約10ベラルーシルーブル、当時のレートだと500円(500円だ 0の個数はきちんと足りている)ほどなので何もかにもが信じがたい。

画像10

 若いお兄さん車掌に切符を見せて車内に入る。今回利用したのは三等寝台・プラツカルタで、寝台の上には所定通り寝具類も配備されている。これについては実際に車掌に声をかけて使っている人もいた。

画像11

 旧ソ連圏客車列車の旅の楽しみと言えばなんといってもチャイ(紅茶)を頼むことだ。各車両備え付けのサモワール(給湯器)から供給される熱々のお湯で淹れたチャイを飲みながら、ぼんやりと窓の外の景色を眺めるのは至福の時である。チャイを買うと担当車掌の貴重な小遣いにもなるので、誰もが幸せになるシステムだ(時々これを逆手にとってウイスキーの瓶を売ってくる国際列車の車掌もいる)。

画像12

 列車は滑るようにブレスト駅を離れていく。3月頭といえばモスクワは凍るような寒さだが、ポーランドやベラルーシ西部は実は意外とそこまで寒くはなく(もちろん東京を基準に考えるとかなり寒い)、また気候的にも車窓に雪が現れることがない。ざっくりと「極寒の東ヨーロッパ」と括ってしまいがちだが、少し場所が変わるだけで気候というものは案外大きく変化するものだ。

画像13

 先ほどのチャイの写真で登場した机は実は収納式で、留め金をはずしてクルリと回すとあら不思議、ベットの中央部に早変わりする。飲み終わったチャイのグラスを車掌のところに返却すると、さっそく座席を寝台へと転換して横になった。かつての日本にもこのような「ヒルネ列車」があったとは聞くが、21世紀のこの世でそれができるのはなんともいえない贅沢だ。

画像14

 昼間から横になってぼんやりと過ごす、休日ではよくある怠惰な一日の過ごし方かもしれない。しかしこれが列車の中となると話は別である。車窓はおおよそ4時間半にわたってひたすら森か、もしくは茶色の草原のどちらかでしかなく、記事としてこれといって書くことが驚くほどない。しかし乗っている方としては何故か飽きることがないので不思議なものである。

 曇天、くすんだ草原、陰鬱とした森、ごくまれに出現する市街地。寝転がってみると鉄路の上に張られた架線がジグザグと動くのがわかる。たったそれだけのことなのに、4時間半はあっという間に過ぎていく。

画像15

 目に見えて建造物が増えてくるといよいよ終点のミンスク到着が近い。この時点で残り10分ほどであろうか、ミンスク駅は市街地ど真ん中にあるため、ここでこの街並みとなるとずいぶんとコンパクトな首都であることを感じさせる。

画像16

 16時35分、列車は終点のミンスク駅へと到着した。キエフほどの陰鬱とした空気ではない(単に慣れただけなのかもしれない)が、天気もあいまってやはりどこかどんよりとした雰囲気である。石炭暖房の香ばしい香りに再び包み込まれる。

画像17

 ふと見上げると発車標があった。どうやら乗ってきた列車はこのままブレストへと折り返すらしい。となると、寝台客車を使って中距離昼間輸送を行っているのは間合い運用というわけでもなさそうだ。

画像18

 プラットホームから地下に降り、通路を通って駅舎へと向かう。ミンスク中央駅はソ連時代の設計ながら、全面ガラス張りの先進的なデザインが特徴的だ。中央にエスカレーターを配置した構造は駅というより空港を彷彿とさせる。

画像19

 ふと隣を見ると巨大な発車標があった。さすが首都なだけあって行先も様々で本数も多い。時間帯によっては東ヨーロッパや西側各地に向かう国際列車で溢れており、大陸の雄大さを感じさせてくれる。(余談だが、この発車標は2019年の夏に訪れた時には電光掲示板に取り換えられていた)

画像20

 駅舎を出ると、荘厳な左右対称のスターリン建築「ミンスクゲート」が出迎えてくれる。濃密なようでどこか軽快な、首都ながら首都らしくない気取らない雰囲気。なによりもタクシーの客引きがモスクワやキエフほどにしつこくないことが気に入った。いざ、2泊3日の首都満喫ツアーの始まりである。

↓次回 ミンスクからモスクワの空路越境記


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?