地平線に向かって

 世界じゅうが混乱しているただ中で、年末の帰省をあきらめた。バイト先の人にそのことを伝えると、そうか少しさみしいねと言われて、こちらも年末年始の予定を尋ねてみたらば、犬の散歩かな、とのこと。犬には正月なんてないですからね、と言ったら、その人は笑って、そうだね、と言った。

 否、犬だって季節が一定の周期でやってくることくらいはわかっているかもしれないけれど、やっぱり節目というものについては、理解できないのではないかと思う。マンションの部屋番号や文庫本のノンブル、車のナンバープレートにたまたま311という数字を見つけたときの感覚を、彼らは知らない。彼らには、はじまりと終わりしかない。俳句を詠む友人に教えてもらったことには、「東日本大震災忌」「東北忌」「三月十一日」といったことばは、季語になっているらしい。ひとつの過去の災害が、果てしなく巡る季節と結び付けられるというのは、不思議だけれど、こころに共鳴するものがあるような。

 繰り返してゆくことや続いてゆくことについて考えていると、しかしそれに伴っていつも現れるのが得もいわれないこわさ、であって、何事についても終わらないということが、私には少しこわい。私がボランティアサークルに入って最初に体験したのは海岸林の植樹活動だったのだが、これが私にとって、とてもよかった。決められた場所に松の苗が一本一本植わってゆくのを見て、私は高揚した。辺りを見回してみると広大な更地が自分に無力さを感じさせたけれど、それでも私は満ちたりていた。復興というゴールに少しでも近づいたという感触が、土のついた軍手をはめた手に感じられたからだ。

 そう、私は復興を、達成したかった。自分の在籍期間に達成はできなくても、いつかくる完璧な復興への、一助になりたかった。ところがサークルに入ってみると、その主な活動は月毎に開く茶話会や年毎におこなわれるイベントの手伝いなど、どうやって達成すればいいのかわからないものばかりだった。これは復興につながっているのだろうか、これは私たちが在り続けるための傲慢でしかないのではないだろうか、そんなことをたまに考えると、つかみどころのない不穏な何かが押し寄せてきた。いつのことだったか忘れてしまったけれどサークルのミーティングのときに、このサークルっていつかはなくなるべき存在だと思うんです、と言ってみたことがあった。でも空気が変になるのがこわくていらない言葉を重ねていると、話題はうまく違う方向にそれていった。また別のミーティングのときには、ニーズは汲み取るのではなくぶつける、と先輩が言ったのを聞いたこともあった。そのときは言語化できないこわさに呼吸が浅くなって頭が沸騰するような感じがして、でも表情は変えずになんとかその場をやり過ごした。またあるときには「ただのマンパワー」ということばを活動中に耳にして、自分が目指していたのはこれかもしれない、と思ったこともあった。これには自分でも呆れてしまったが、つまるところはそういうことなのだった。

 そんなこんなで低いこころざしを持て余しながら、なかなかどうして私はサークルを続けてきた。続けられた理由としては、慣れたから、というより他ない。じじつ、サークル活動は充実していた。端的に楽しかったし、私たちを受け入れてくださる方々も、喜んでくださっているようだった。そのことはとりもなおさず意味のある、よいことであって、その辺りに私は折り合いをつけることができたのだと思う。活動と復興の関連性についてふかく考える機会が減って、そしてその状態に私は、よくも悪くも慣れてしまったのだった。

 いま、震災後十年の節目にあって、忘れかけていた果てしなさにまつわるあれこれを、ふたたび突きつけられている感じがする。時間はいつも一定に流れてゆくけれど、二〇二一年三月十一日が過ぎた世界では、震災が「十年以上も前の出来事」になってしまう。それはたぶん喜ばしいことでもあって、でもやっぱりどこかかなしい。このかなしさを感じているということが、サークルを続けてきた成果のひとつなのだろうか。不断に続けてゆかなければいけないことの存在に、その大切さに、気づけたということなのだろうか。

 私が小学校を卒業して中学校を卒業して高校を卒業して大学生になるまでのあいだに、たくさんの変化があった。東北本線が少しずつ再開して、サンマ漁やモモの収穫が少しずつはじまって、仮設住宅が少しずつ撤去されていった。そういうあかるい変化が数えきれないほどあって、その一方で、変わらないものというのもまた、数えきれないほどある。その不変なものに向き合うというのは、ほんとうにくるしい。くるしいけれど、これは十年とか二十年とかそういう区切りでぱたっと本を閉じるように済ませてよいものではないのだ。バイト先の彼は、きょうも犬を散歩させただろうか。きっとさせたに違いない。あしたもあさっても、散歩させるに違いない。たぶんそれが、犬を飼うということなのだ。こわさは拭いきれないけれど、きっとそういうことなのだ。

(東北大学文学部3年、Google Formsに寄稿された文章)


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