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5月18日

今日は、午前中、ずっと寝ていて、時々目は覚めたけれど、出るつもりは一切無かったのでその度に布団に篭った。
ここ数週間、特に今週はとてつもなく落ちて、もうダメかなとすら思いながら、なんならば今だってもう無理かなとすら思うけれど、どうにか稼働し始めている。
何が辛いって、気分の波の乱高下の回数がテンポが激しいことだ。破壊衝動と無気力と笑顔と高揚感をひたすら繰り返す。これにより、最近は痛みが幸福に感じてしまうことがわかった。自分で自分を苦しめる瞬間が気持ちいい。首に紐を巻き付け思いっきり力強く締める。それが気持ちいいのだ。もちろん今はそんなことしない。するはずがない。頭おかしいと思う。痛いことは嫌いだ。しかし、なぜか、どうしてだか、首に紐を巻き付け締める瞬間があり、その苦しみが気持ちいいと感じていたのを僕は覚えている。笑顔は心の防御機能だと聞いたことがあるが、僕は何度も笑う。自分を笑う。僕にはいつも自分を見る自分がいる。鏡に映った自分がいつもいて僕を苦しめる。じっと僕を見ている。
回復するのは突然だった。本の一小節読んだとき、音楽を聞いたとき、写真を撮ったとき、口から声を出すとき、、今日も夕方過ぎまでガッツリ落ちていた。太陽の光がしんどくて目を下に向けてどうにか外にでたくらいだ。だけど、そんな日でも僕は回復した。どうしてか。僕の場合、声は自分の声を自分で聞く事で、回復に近づくことがわかったのだ。大事なのは、録音とかではなく、リアルタイム。意識して、喋る内容を考えて、口から出す、というよりも、口から出たものを、耳で聞きようやく理解する。という言い方の方が近い。正しくは、同時並行なのだろうが、言い方、としてはそのほうが実際の感覚的に近い気がする。声を出す事、耳で聞くこと。この作業をしている人少ないのではないだろうか。一人で、ブツブツと少し大きめの声で。脳みそのなかで、考え事としてしか、または、文字起こし等で悩みを消化する事の方が多いのではないだろうか。僕自身、これまで日記という形でノートに文字に起こして自分の無意識を見つけることをしてきた。ただ、文字で書くと、結局、文字を見て、脳みそ内で世界が、物語が始まり、悩みが加速されていく感覚もあった。それはそれで、面白いのだけれど。物語を紡ぐ世界はアイディアに繋がる。しかし、今、この瞬間の辛さを解除するとなると、今日会得した口の喉の音の運動に身を任せる方が自分の無意識に気がつけて落ち着きを取り戻せる。自分を見ている自分、という強い分けられているような感覚が、消えていくのが、この今日会得した物の最大の強みだ。体全身で自分を使いながら考える事が大事なんだ。それによって、ようやく現実を生きれる。
「私」で分けてるから病気になるのだ。私という主語なんてどうでもいい。そんなことを気にする前に、ひたすらに体で生きることを感じれたらそれでいいのだ。自分の好きなこと勝手にやる。今この調子で楽しく気持ちよくはいるが、おそらくまた、落ちるのだろう。気をつけて抜くとすぐ落ちる。悲しくなる。死にたくなる。でも良い。またそこで気づきはあるし、得るものはある。退屈をぶっ壊し、自分の生をすすめばいいのだ。世界の豊かさを体に浴びて今日も生きるのだ。

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