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6月15日  テーマソングはLeah Dou 「See you again」で。

僕の中にあるキモい部分。
僕はキモい。キモいということを自覚している。にもかかわらず、キモい部分が出てきてしまう。
僕はいい人間になりたかった。いい人。いい人って、なんかいいじゃないですか。いい人って、人気者になれるじゃないですか。いい人は何かと特典がついてきたりするものじゃないですか。
ただ、現実世界で、僕は、キモい人だった。
こうして書きながら、高校生の時、無表情でいることが多い私は、周囲の人から「何考えているか分からない」と何度も言われた事を思い出した。当時は、いつも何か考えている人の方が珍しいだろ、と流していたが、今なら、何考えているか分からない、自分に、納得がいく。
私は、いい人になりたかった。いい人でいようとした。つまり、常に、装い続けていた。自分ではない、何かになる事を意識し続けていた。
その場に適した人間になろうとしていた。
これは、ごく最近まで続いている。なんなら、今でさえ、体に染みついている。
装いの基本設定は、いい人、なのだが、その場の、環境の条件により、変化していく。
そのため、最初は好印象の場合が多い。徐々に仮面が崩れていく。
自分のキモい部分が顔を出すのだ。
下心というものである。
下心の自分。私の中で、彼を、28歳独身バイトリーダーと呼んでいる。
彼はかなり強く私に、現れる。
この28歳独身バイトリーダーは、いわゆる、わかりやすい、「キモいおっさん」として振る舞う。
周囲の人に気を遣いがちで、話が長く、しつこく、うざい。その上面白くない。自分の立場が上というところから話がスタートするので、どこか上から目線の物言い。
僕は彼に本当に苦しんだ。
バイト先で頻繁に彼は顔を出した。家に帰ると、どっと疲れが出る。自己否定が始まる。なんであんな言い方しかできないのか、もう話したくない。何もしたくない。自分が気持ち悪い。変わりたい。ただ、バイトに行くと、いつの間にか発動している。その時の自分は上機嫌である。彼であるが、私なのだ。
と、ここで、僕は、自分の中のキモいおっさんである、28歳バイトリーダーを分析して、世の中に蔓延る、「キモいおっさん」たちが、なぜ、「キモいおっさん」なのかが分かった。彼らは、精神年齢が18歳以下にも関わらず、社会に出たことで、規範、大人とはこういうものである、という仮面を、無意識的に被っている。さらに、おっさんという地位、年齢のマウントが合わさり、外見と中身のズレが、キモさとして表出する。
「お前の考えすぎだ。」
確かにそうかもしれない。気にしすぎている可能性がある。ただ、気にしすぎてしまう、という事実が私の中にある。この、気にしすぎている=装ってしまう事態を、どう解消すればいいのだろうか。

僕は今、自分の精神年齢が15歳であることを自覚している。といういうよりも、自覚できた。
2022年、3月上旬、岡山に滞在中、映像業界で著名な人と話した時のこと。
私は、その人の事を存じ上げなかったのだが、周囲の人が、“凄い人“と言うので、何をトチ狂ったのか、その人に、自分の考えをズバズバと、若干舐めた態度でぶつけてみた。すると、その人は、私の考えに、一つ一つ丁寧に返答した。私は急に自分の事が恥ずかしくなった。と同時に、それら一つ一つの返答自体が、深く心を貫いた。
その日の夜、私はラウンジのソファーで一人、涙を流した。

小学6年生の時、私は映画を見て、泣く練習をした。
映画のタイトルは「パーフェクト・ワールド」監督はクリント・イーストウッドで、主演がケビンコスナー。
そもそもなぜ、そんな事をしたのか、というと、当時の私は、普通は泣く状況で笑ってしまうことが頻繁にあり、自分の感情に違和感を覚え、普通になるため、泣く練習を始めた。
結果は大成功。映画を見て、私は泣いた。泣こうとして泣いたのだ。
この時から、私は、映画から感情を学ぶ事を覚えた。
中学生に上がり、愛知県に引っ越してきてからもその作業は続いた。
当時見ていた映画は、どれもハリウッド映画で、ハリウッド映画は、恋愛がつきもので、僕は大きく影響を受けた。
ハリウッド映画スタイル恋愛モードで生きてきた私ですが、中学までは、付き合う機会に恵まれた。
ハリウッド映画スタイルと書いているが、もちろん、勘違いである。大事なのは、当時の私の頭の中の世界では、成立していたという事だ。
頭の中では、上手く行く。常に僕の後ろでは最高のテーマソングが流れるラジカセを持った人が待機している。道行く人全てが、僕という映画の登場人物で、LALALANDばりのダンスを今かいまかと、待機している状態なのだ。
しかし、高校になると状況が一変する。何もかもが上手くいかないのである。映画で学んだ事と違う。私は混乱した。ただ、この場から外されないように、と、自分にキャラ設定をし高校生活を送った。そして高校3年の時、全てにやる気を失い、学校を休みがちになり、勉強に身が入らず、浪人に突入していく。
現実では、イメージとの大きなズレが生じていた。
小学生の頃の映画体験、いやもっと前から、私は、装い続け、自分を見失っていた。
そもそも僕は自分というものがあったのだろうか。もっと前。
家では暴力を振るわれない自分でい続ける必要があった。
怒号と悲鳴が飛び交う家庭環境から抜け出すために、自分の世界を作った。
苦しさを抱えながらも、ただ、その苦しさは、この社会では甘えとして、自己責任として処理される。そこまで酷くない、その程度でしょ、あの子の方が酷い経験してる。
その通りだと、私は自分を責めた。こんな自分は早く死んだ方がいいのだと考えた。首に紐を巻け縛る。快感がおそう。生きている!生きている!そしてまた、死にたくなる。

ソファーで涙を流して、気がついた。気持ちがいいのだ。
悲しいが、気持ちがいい。嘘がない涙、泣いている。涙が流れている。
知らない涙が頬をつたっている。
僕は生きている。自然に、心地よく、生きている。

他者と関わる上で、無意識で気を使う、態度を変えるのは、当たり前に思われる。つまり、装うことはこれからも、不可避である。解消することは出来ない。
ただ、僕は、生きやすさ、という依代を見つけた。
その生きやすさは、「本来の自分」などというものではない。
僕が生き、学び、進む中で、その都度変化し続けるものだ。
だからこそ、自分の生きやすさに目を向け、チューニングする作業が求められる。
ここで、疑問が晴れたと思う。なぜこいつは、こんなにも拙い文章を恥ずかしげもなく書いているのか。
これがチューニングなのである。拙くとも、嘘がない自分の言葉を書くこと、書くために、出すこと、書くと出すを分けない。書いたら出すのである。
写真を撮ることも、音楽を聴くことも、毎日の料理も、睡眠も、歯磨きも、チューニングなのだ。
拙いが、確かに進んでいる。変化している。
友人が今日言っていた。流れが大事だと。
流れに乗ることと、流れの中にいることは違う。
流れの只中で、幸福の只中で、そこだけを目指して。
そしたら自分のキモさもどこかで変化し、ちょっとは愛せるよね。

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