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穏やかであること

310の生誕と弔い

310が産まれた時は虚構100%だった。
初めは、このTwitterアカウントは「メンヘラ」という言葉を知るために「メンヘラ」の人格を形成させていこうとして産まれた共同アカウントだった。今ではファッション化された「地雷系」のアイコンに、ピンクやリボンが散りばめられたヘッダー。「いかにも」を目指してつくられた。このTwitterアカウントは1人にみせかけた人格を形成するために1人以上の者が携わっていた。

そうやって産まれた人格は、一度停滞し更新をすることも無くなってしまったため放置されていた。歌詞のような憂いのある散文をたまに投稿するくらいになった。

その後、今現在更新している私1人で使うこととなった。そこからのこのTwitterアカウントの役割は「私」を露呈させることになった。
精神的な秘部を人に見せることを少しずつ行っていた。この頃の私は虚構70%ほどであろうか。
それから約2年ほど310というキャラクターをひとつ持つことで、変革したことがいくつかある。

ネガティヴな発言を素直にSNSに書き込むこと
人と雑談の通話を行うこと
人に自分の歌声を聴かせること
自分の書いた文章をネットに載せること
食事の誘いを断ること
男性の声に恐怖を感じないこと
自分のためにお菓子を買えること
自分のために遠出できること

今でこそ通話で何時間とお話することができるが、以前はそんなことできる人間ではなかった。
まずもって男性の声を聞くのが苦手だった。暴行事件のPTSD・トラウマを持っていた私は克服を望み協力をお願いした。快諾をしてくれた方とはもう1500時間ほど通話しただろうか。
以前の私はチャットにしても通話にしても必要な情報以外はやり取りしないような人間だった。迅速に、早急に、必要なものや要件だけ伝わればいいと、それ以外のコミュニケーションとしてのやりとりをあまり行ってこなかった。めんどくさいからだ。会話なんて会った時にすればいい、と思っていた。
ゆえに協力してくれた方からくる「おはよう」には日々何を返したらいいのか悩み、疲労にまでなっていたことがある。「おはよう」に「おはよう」という文言を返すことが非常に無駄だと思うから、「何かギャグやボケを披露しなければ」と強迫観念にかられてしまい日々のその「おはよう」が来るたび送るネタに苦戦していた。
その積み重ねが疲労に変わっていたのだ。おはようときたらどう身構えればいいのかと疲れていたことを思い出す。
いまとなっては「おはよう」と送られることに対して、全力でボケようとしなくていいとスルーができるようになった。
日々ネタを考え、おはようのリミットが近づくにつれ焦りとストレスを感じていた頃は非常に鮮明に覚えている。

否定と支配・操作

それからまた2年、膨大な涙と叫びを繰り返しながらできるようになったことが以前にまして頻度高く・気楽に行えるようになったり、新たな壁を壊すこともできたように思える。

インターネットでショッピングすること
人に触れられる/触れること
文句を言うこと
夜に外出すること
感情を声に出してみること

精神関係の用語は詳しくないため
依存や自傷について調べていった。
これらの語彙は「否定」がキーワードになる。
まだ調べていないがよく目にする
メンヘラやモラハラも少しずつ知りたいワード。
おそらく、ここには「支配・操作」が関連しそうである。


正直何も成長していないし、無駄だと思っていた精神の療養は何かしら効果があったのだと思えることが近頃あった。
家族と会話した際に、以前は平然と受け入れていたものに頭の中にはてなマークが飛ぶようになった。
手術で縫った際、手術の報告を行うと「そんぐらいの小さいの。私はもっと大きく縫った」と、なぜか縫い目の大きさのすごさを競う状況が生まれたのが不思議でならなかった。でもよく考えればこの「否定」と「支配・操作」の会話は幾度となく行われてきたものだった。
以前の私ならその言葉に対し、「私の負ったものは大したものではない」と受け入れ、「苦労している母に献身を」と身を呈していた。それが当たり前であると不思議に思うことなく親子の関係を築いていた。

生きていてずっと親と話すたび、自分の周りにあるオーラのような人の形がアイスピックで砕かれ侵入される感覚を持ち、学生時代は誰にも心を開かないことでその人型をなんとか壊さないように落ち着けていた。精神が限界に達してしまったことで人に弱みを見せることで人の形が保たれながら話している感覚を少しずつ知っていった。
だからこそ今までは平然と受け入れられていた言葉に対し「どうして?」と頭にストップをかける機能が構築されていったのかもしれない。

アイスピックに刺される前のポーズボタン。
これは自分を守るため以外にも嬉しい機能だった。
なにせ「否定」と「支配・操作」の受けてきたものは自分の体を通り抜け右から左に流れるように、無意識に無自覚に誰かに渡ってしまうことがどうしても生まれるため、受け継ぎたくない惨事を引き止めることにも作用する。

「おはよう」という毎日のあいさつに対し
なにか提供を促されている強迫を感じていた理由は、この「否定」と「支配・操作」のマインドセットにあるのだと頷けた。

3年前ほどに「少しでもよくなっていることがあるなら治るやつじゃん」とポジティブな言葉をかけられて、私はすかさずネガティブな発言をいくつもしたことがある。(「でもまだ〜はできないし」「〜だってままならないし」等)当時のわたしはすかさず否定を繰り返し相手の大切な意見をねじ伏せるようなネガティブを吐き捨てていた。
改めて思い返すとなんていい言葉をもらっていたのだろうと思う。

どうか少しでもこの「否定」と「支配・操作」の言葉でわたし自身もわたしの周りの人も傷つけないように穏やかな会話を習得していきたい。


少しでもそのマインドセットに気付けたのだから、人の怖さも治り穏やかな会話をできちゃう。
そう思わせてくれる周りにいくつも感謝しながら、

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